「さあ、帰ろう!」
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ルカによる福音書24章13~35節
エマオへの道。聖書の中で、私のいちばんのお気に入り箇所です。皆さんの中にもそうだと言われる方多いのでないでしょうか。それは、なんだか夢見心地で、映画のワンシーンのように美しく、遠い昔、子ども時代のある懐かしい出来事をふと思い出すときに心の中がじわっと温かくなるような、そんなノスタルジックな気持ちにさせてくれる物語です。A年の復活節第3主日に読まれるこの福音書は、三年に一度なのですが、前回もこの奈良基督教会で私が説教させていただきました。三年前の4月といえば、私たちがこの教会に赴任してきたばかりの時です。奈良に来て2週目のイースターを境にコロナウイルス感染症の流行に伴い教会を閉めるという苦渋の決断がなされ、復活節第2主日より、試行錯誤のオンライン礼拝が始まりました。教会を閉めて、オンライン礼拝なんかしだしたら、もう信徒は戻って来なくなるという批判が全国であがりました。そんな中、私たちが下したのは、教会はそんな簡単になくならないし、信仰もなくなりはしない、それよりもまずは信徒の命を守らなければという決断であったと思います。そして、コロナ禍3年目を迎えた今年4月9日のイースター礼拝には、140名もの出席者があり、祝会も行われ、うれしいことに、3年遅れで私たち牧師一家の歓迎会までしていただきました。まだまだ油断禁物ですけれども、少しずつコロナ以前の状態に戻ってきました。
この3年間、本当に多くの人が命を奪われました。愛する人、仕事、住む場所さえ失くし、苦しみのどん底に陥った人たちのことを私たちは忘れてはなりません。でもその中で私たちが学んだこと、知ったこと、気づかされたたくさんのことはもっと忘れてはならないと思うのです。それは、人とつながるということの大切さ、悲しむ人に寄り添うということです。物理的に寄り添うことが叶わない中、いろんな手段が考え出されました。電話をする、ビデオ通話をする、手紙を書く、メールを送る、贈り物をする。(実際、母の日にはお花屋さんの配達がコロナ前に比べて激増したそうです。)なんとかして、あなたはひとりじゃない、私が一緒にいるよ、一緒にこの試練を乗り越えようねというメッセージを送ろうとしました。でもその中で、いちばんパワフルなもの、目には見えないけれど、必ず相手に届く。私たちクリスチャンがそう信じて実践したのが、誰かのために祈るということです。何を祈るのか。それは、「あの日あなたがエマオへ行く弟子たちにそうしてくださったように、あの日あなたが悲しみのどん底にいた私にそうしてくださったように、どうか今日、暗闇を行くあの人のそばを共に歩き、それがあなたであることをその人に悟らせてください」という祈りです。
エマオとは、どこなのでしょう? エルサレムから60スタディオン離れた村と書かれています。それは訳11キロの距離、普通に歩くと2時間半から3時間といったところでしょうか。結構な道のりです。それも昼下がり、どんどんと太陽の位置が低くなり夕暮れが迫る時間、二人の弟子たちは話しながらとぼとぼと歩いていました。その日は、イエス様が十字架につけられて三日目の日曜日でした。あれ、それってイースターじゃない? イエス様が復活された日でしょ? 弟子たちは喜びいっぱいでスキップして歩いてたんじゃない? そう思いますよね。それがちがったのです。女性たちが朝お墓へ行き、そこが空っぽであり、天使に主が復活されたことを告げられたという証言を聞いたにもかかわらず、とてもとても信じることはできませんでした。心の目も耳も閉ざされ、ただただ不安と絶望の暗闇の中を歩いていたのです。イエス様がよみがえられたエルサレムを背にし、エマオという悲しみの終着点へ向かっていたのです。そこにどこからともなく、イエス様が現れ、神さまのお話をしてくれました。それはもう、ずっと聞いていたいと思わせるような引き付けられるお話で、それまで黒雲で覆われていた二人の心の中はいつしか晴れわたり、心臓がバクバクして感動いっぱいになりましたが、その時はまだそれがイエス様だとはわかりませんでした。もう主は死んでしまってここにはいないのだという固定観念が頭にこびりついていたのでしょう。それが、日も暮れて、先を行こうとされるイエス様を無理やり引き留め、ともに食卓を囲んだ時に彼らの目が開かれたのです。ハッとしたその瞬間、イエス様の姿は消えてしまいました。どろん。狐につままれたかのようです。
しかし、二人の弟子たちは既に変えられていました。復活の主に出会ったのです。「さあ、帰ろう!」二人は手を取り合い、歓声を上げながら、エルサレムへ向かいました。この喜びを皆と分かち合おう、まだ知らない人に伝えよう。そうして出来ていったのが教会です。もうイエス様は目に見えない、でも、それまで真っ暗闇であったこの心の中にともった光はもう消えないのです。「道で話しておられるとき、私たちの心は燃えていたではないか!」この経験は消えることがありません。そして、それは誰にでも起こる出来事なのです。
私は、三年前の説教で、以前乳がんの宣告を受けたときの絶望と、その中にイエス様が来てくださって神さまが生きておられる確信とそれを知ることでもう一度立ち上がらされた経験を語りました。でも、なかなかこんな話をするのを私たちは躊躇しますね。なぜなら、それは聞く人によったらとても陳腐に聞こえ、「ああ、そうですか、よかったですね」で終わってしまうかもしれないと思うからです。でも、です。それでも、です。私たちクリスチャンは語らなければならない。証ししなければならない。それは牧師の専売特許ではありません。聖公会にももっと証しを分かち合う場が欲しい、私はそう思います。空っぽの墓でイエスに出会った女性たちが弟子たちに語ったように、エマオへの道で主に出会った二人の弟子たちがエルサレムの人々に語ったように。その後は心配しなくていいのです。主ご自身が必ず光を必要としているその人に出会ってくださいます。
今回のコロナ禍で復活の主は大忙しであったことでしょう。あちこちに現れ「だいじょうぶ、私はあなたと共にいる」ということを伝えてくださいました。それは、私たちの祈りです。暗闇の中を歩く人に主が現れてくださいますように、そしてその人をエルサレムへ、私たちの教会へ導いてくださいますようにと私たちはこれからも祈り続けたいと思います。この後、「ガリラヤのかぜかおる丘で」を歌います。4節の歌詞は、「夕暮れのエマオへの道で、弟子たちに告げられたいのちのみ言葉をわたしにも聞かせてください」。ぜひいつもこの聖歌を心に留め、「わたしにも聞かせください」と歌いましょう。そして「わたし」を今あなたの心にある大切な人の名前に替えて歌ってみてください。復活のイエス様は私たち一人ひとりのそばを歩いてくださっています。