2022年7月31日<聖霊降臨後第8主日(特定13)>説教

「本当の豊かさとは?」

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 ルカによる福音書12章13~21節

 さて、今日の福音書の中で、イエス様は群衆に「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい」と言われました。貪欲という言葉の意味は、「非常に欲が深いこと。むさぼって飽くことを知らないこと。また、そのさま」です。「非常に欲が深い」、という意味だけみても、決して良い言葉ではないようです。そしてさらに、「むさぼって飽くことを知らない」という言葉、この言葉を聞きと、教会の多くの方は、モーセに神さまが託された十戒のこのフレーズを思い出すかもしれません。「あなたはむさぼってはならない」、十戒の10番目には、この言葉が刻まれています。

 ですから今日のイエス様の言葉は、聖書を読むわたしたちの耳には、非常に厳しいものだと聞こえるのです。「貪欲であってはいけない。むさぼってはならない」、今回のこのイエス様の言葉は、群衆の中にいた一人の人の発言によってもたらされました。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください」と訴えるその人に対し、イエス様は答えます。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか」と。そこから「貪欲に気を付けなさい」という発言につながっていくのです。

 そして語られたたとえ話、新共同訳聖書には「愚かな金持ち」というタイトルが付けられているたとえ話が語られていきます。ある金持ちの畑が豊作だった、ここから話はスタートしていきます。彼が収穫した穀物は、彼が持っている倉には入りきれないほどに大量でした。そこで彼は考えます。「倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまおう」、そして自分にこう言います。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」。

 その彼を見て、神さまが言われます。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」。これがイエス様が語られた「愚かな金持ち」と呼ばれるお話しです。さてみなさんはこの話を聞いて、どのような感想を持たれたでしょうか。

 聖書という書物は、ある意味、恐ろしいものです。小見出しやイエス様の言葉の中に「愚かな」とあるだけで、その「愚かな」定義をさがしだしていきます。自分の生き方を顧みるために、あるいは自分を変えていきたい、その思いの中で、この「愚かな」というのはどういうことなのだろうかと問いかけること、それはとても大事なことでしょう。しかし残念ながら、こういう箇所は人を裁き、人々を恐怖に陥れるために使われることもあるのです。しかし、考えてみましょう。今日、福音書の中でイエス様がこの話を語るきっかけを与えた人物、「わたしたちにも遺産を分けてくれるように兄弟に言って欲しい」といったこの人物は、果たして本当に貪欲なのでしょうか。

 この当時のユダヤ社会では、父親が亡くなって遺産が分配されるときには、長男には多くのものが与えられていました。まず土地はそのまま相続していきます。そして財産についても、他の弟の倍もの金額を、長男は与えられるように決められていました。この「遺産を分けてくれるように」と訴えた人物は、弟なのでしょう。弟には家もなく、土地もない。でも自分の取り分だけはある。しかし兄は、すべてを自分のものとしてしまったのです。それはおかしい。イエス様、あなたは先生と呼ばれています。この状況を何とかしてください。兄にそれはダメだと言ってください。この訴えを聞いたときに、わたしたちは簡単にその人のことを、「貪欲だ」と退けることが出来るでしょうか。当然の権利を主張しているのです。それがないと生きていくことが出来ないかもしれない。だから訴えているのです。

 では「愚かな金持ち」はどうでしょう。彼の畑は豊作でした。そこでその食料を貯えようとした。このような行為をする人を、一般社会では「堅実な人」と呼びます。だってそうでしょう。わたしたち、お給料をもらったら、すべて使ってしまいますか。ある程度貯蓄に回しませんか。老後のため、子どもの将来のため、様々な理由で貯えるのではないですか。それは果たして、「愚かな」ことなのでしょうか。このイエス様の言葉を利用して、こういう人がいます。「だからすべての財産を差し出しなさい。貪欲の罪を犯さないためにも」。キリスト教の一派を名乗る異端やカルトと呼ばれる多くの宗教は、こういう箇所や、初代教会がすべてを共有していたという記述、あるいは黙示録にある世界の終わりの記述を元に、人々を恐れさせ、財産を奪っていきます。「財産を手放せない者は愚かだ、神さまはそういう人を赦さない」、それが正論であるかのように語り、目に見えることだけを捉えて人を裁いていく。そしてその財産は多くの場合、一部の人の手に渡るだけで、本当に必要な人には渡っていかないのです。

 教会は、そのような裁き合いの場になってはいけないのです。イエス様の思いを、「神さまの愛」というフィルターを通してみなければ、わたしたちには本当のことが見えてこないのです。そもそもイエス様は遺産云々と言ってきたその人を退けてはいません。イエス様は彼を含む一同に対して、人の命は何に拠っているのか、人は何に軸足を置いて歩むべきかを語られています。財産を持つことを単純に否定しているのではなく、わたしたちには何が大切なのかを伝えようとしているのです。

 イエス様が語った愚かな金持ちと呼ばれる人、その人は何が愚かだったのでしょう。日本語の聖書では分かりにくいのですが、実は彼はこのように言っています。「どうしよう。わたしの作物をしまっておく場所がない。こうしよう。わたしの倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこにわたしの穀物やわたしの財産をみなしまい、こうわたしの魂に言ってやるのだ」。

 「わたしの」、「わたしの」と繰り返す彼に対し、そうではない、本当の豊かさは神さまの元にあるんだということを告げ、そして命の源は地上の富、財産ではなく神さまの愛に拠るものだと語られているのです。今日の使徒書は、コロサイの信徒への手紙3章12節から17節でした。12節はこのような言葉から始まります。「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」。すべてのスタートはここなのです。まず神さまが、わたしたちを愛してくださった。正しいからでも、素晴らしいからでもなく、ただ一方的にわたしたちを選ばれました。

 そしてその神さまの愛に心を向け、わたしたちはどう生きるべきなのかを考えていくのです。そこがわたしたちには大切なことなのです。神さまの愛のシャワーを身体いっぱいに浴び、生かされたのちに、じゃあわたしたちはどうすべきなのか、ということなのです。そしてわたしたちが神さまの愛に生かされるとき、わたしたちが得た物は「わたしのもの」ではなく、神さまからの恵みに変わっていきます。そのときに、わたしたちはその恵みをどのように用いていくのか、神さまにどう促されていくのか、それが大切なのです。