2024年3月10日<大斎節第4主日>説教

「ちいさなささげもの」

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 ヨハネによる福音書6章4~15節

 5000人の供食と呼ばれるこの物語は4つの福音書すべてに載せられでいます。さらにマタイとマルコには4000人バージョンというものもあり、合計で6回、聖書の中では取り上げられているものです。そこに描かれるテーマは、神さまが人々を養う神の国の食卓です。イエス様が群衆を、飼い主のいない羊のようだと憐れみ、命を与える。そこには十字架というテーマは描かれてはいませんが、しかし今回の箇所を読むと、それ以上に大事なことが書かれています。それは、「ささげ物」です。

 今日読まれたヨハネ福音書の供食物語、そこには他の福音書には出てこない登場人物がいます。フィリポやアンデレもそうなのですが、それ以上に心を向けたい人物、それは名前も書かれていない「一人の少年」です。

 イエス様の元に、5000人もの群衆が集まってきました。イエス様が病人をいやされているといううわさを聞いたのか、イエス様の話を聞きたいと思ったのか、あるいはイエス様を見てみたいという動機なのか、様々だったと思います。その5000人もの人を見て、イエス様は弟子のフィリポに言われるのです。「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と。それを聞いたフィリポは答えます。「いやいや、そんなの無理ですよ。200デナリオン、つまり200万円分のパンでも足りませんよ」。これはいわば、「常識」です。人に何かを食べさせたいなら、パンがいる。パンを用意しようと思ったらお金がいる。それが5000人なのです。途方もない量のパンもいりますし、莫大なお金もかかるのです。

 わたしたちは、いわゆる「大人」になるにつれ、こういうある意味「計算」が素早くできていくようになります。そしてこのような考え方がすぐにできる人は、人間的には「賢い」とされるわけです。しかし神さまの目から見たら、どうなのでしょうか。

 イエス様の弟子であるアンデレの元に、一人の少年が近づいてきました。彼は手に、5つのパンと2匹の魚を持っていました。多分彼は、「どうやってみんなを食べさせようか」と悩んでいる弟子たちを見て、いてもたってもいられなかったのでしょう。持っていたパンと魚を差し出し、「これ使ってよ」と言ったのかもしれません。しかしアンデレは、「何の役にも立たないでしょう」と切り捨てます。とても冷たい言い方です。そこには、二つの理由がありました。一つは、その量です。5000人とパン5つ。とても釣り合いません。そしてもう一つの理由、それはパンが「大麦パン」であったということです。今でこそ、様々な理由で大麦パンを好む方はおられるでしょう。しかし当時、カチカチの大麦パンは奴隷や家畜の食べ物とされていました。この少年は、イエス様の話を聞きに来た大人の人の奴隷だったと思われます。手に持っていた大麦パンは、ご主人様が連れてきた家畜のエサかもしれない。もしかしたら少年のお弁当かもしれない。アンデレを始め、大人たちは言うわけです。そんなもの、「何の役にも立たないでしょう」と。

 先週、教会では1月と2月にたくさんの方々からお預かりした能登半島地震復興支援の義援金を送金いたしました。礼拝の中でのアピールのほか、親子礼拝の中でも、また見学者の方もご協力いただいたようです。そして2月25日の礼拝の中でささげられた信施と、サンデーキッズRainbowのその日の献金も合わせて、317,958円を今現在能登で、日々復興に向けた活動をしている吉村誠司さんの働きのために送らせていただいたわけです。

 改めて、この317,958円という数字を見たときに、すごいなあと感じます。それは、金額の多さに驚いているのではありません。その、お一人お一人の気持ちを感じることができ、すごいなあという思いがあふれるのです。1万円札も入っていました。そして、1円玉や5円玉といった、いわゆる「小銭」もたくさん入っていました。そのすべてが無記名で、誰にひけらかすわけでもなく、ただ献げられている。その一人ひとりの思いが詰まったこの献げものを、きっと神さまは豊かに用いてくださる、そう思うのです。誰一人として、こんなもの、「何の役にも立たないでしょう」とは思わなかったでしょう。それどころか2000年前の少年のように、「ねえ、これ使ってよ」という気持ちで献げられたものだったのではないでしょうか。

 今日の聖書が伝えたかったこと、それは、その少年の小さな献げもの、量も少なくカッチカチ、人間からみたらそんなものをもイエス様は、豊かに用いてくださるということです。いや、そのような思いで献げられたものこそ、イエス様は喜ばれ、それを人々と分かち合ってくださるということです。

 今年の年間聖句は、「子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない」です。「子どものように」の一つが、今日の献げものの物語だとしたらどうでしょう。わたしたちが献げるもの、奉仕や祈りに至るまで、それが素晴らしいものだから、とても満ち溢れたものだから、神さまは喜ばれるというのではないのです。

 たとえそれが人の目にはちっぽけで、不十分で、何の価値も見いだせないようなものでも、神さまの目には高価で尊いのです。イエス様はわたしたちから、その「小さな献げもの」が献げられるのを待っておられるのです。

 この少年は、ヨハネ福音書の5000人の供食にしか出てこないと、最初の方で言いました。実はもう一つ、ヨハネ福音書にしかない特徴があります。それはイエス様の十字架の直前におこなわれた、「最後の晩餐」の記事がないということです。最後の晩餐というと、わたしたちが礼拝の聖餐式の中でおこなう、パンとぶどう酒を分かち合う儀式の元になったものです。その記述が、他の福音書にはあるけれども、ヨハネ福音書にはないんですね。

 一説には、この少年が持ってきた、大麦パンと魚を分かち合う5000人の供食が、聖餐式をあらわしているからなのだと言われています。確かにパンは一緒でも、魚とぶどう酒は違います。

 しかし、「小さな献げもの」がイエス様によって豊かにされ、それをすべての人たちと分かち合うその様子は、まさに聖餐式なんです。わたしたちは何に生かされているのか。神さまの恵みであることは間違いありません。

 しかしその根底には「小さな献げもの」の存在があり、またイエス様は無から何かを生み出したのではなく、そのちっぽけなものを祝福されて用いられたことを知るときに、わたしたちは「ほんとうの献げもの」の意味を知るのではないでしょうか。

 「子どものように」、わたしたちも神さまのために歩んでいくことができるよう、祈り求めていきましょう。