2025年3月22日<大斎節第5主日>説教

「イエス様の十字架」

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 ヨハネによる福音書11章17~44節

大斎節第5主日となりました。来週教会は復活前主日を迎え、そして聖週に入っていきます。今日は奈良基督教会の礼拝は、みさ司祭が海外出張のため信徒奉事者によるみ言葉の礼拝となっています。そこでこのYouTube配信は、わたしが上野聖ヨハネ教会で説教する内容となっています。

 さて今日、先ほど読まれた聖書の箇所は、ラザロの復活と呼ばれるものです。聖書を読んでいて、病気のいやしや死者のよみがえりの箇所が出てくると、わたしたちは様々な思いを持つのではないでしょうか。

 わたしは牧師になる前、三重にある菰野聖十字の家で勤務をしていました。京都教区の退職司祭である小松司祭に呼ばれ、夫婦でそこに住み、様々な人たちと関わってきました。ケアハウスや特別養護老人ホーム、老健施設、身体障害者のための施設などがありました。

 当時は小松司祭もお元気でしたので、毎週施設の中にある菰野聖マリア教会で礼拝がおこなわれていました。月一回は聖餐式、それ以外の週は朝の礼拝と、入居者の方も2~30人集まるにぎやかな教会でした。

 わたしは当時、聖公会で堅信を受けてから3年くらいしか経ってなく、聖餐式のサーバーや聖書朗読など、できる範囲での奉仕をしていたのですが、あるとき小松司祭に言われました。「朝の礼拝、月一回やってくれ」と。

 この「やってくれ」という意味、簡単にいうと司式をしなさい、そしてメッセージもやりなさい、という意味でした。司式は何となくできるかな?と思いましたが、「メッセージもですか?」と驚いた覚えがあります。

 というのも、当時の会衆の中には、いわゆる主教夫人や牧師夫人が多くいたからです。また後には、退職司祭も入居されたりもしました。さらに小松司祭も、後ろでじっと聞いている、そんな恐ろしい状況がありました。

 でも、引き受けざるを得ず、月一回注解書と呼ばれる本を何冊も読み、どうにかこうにかお話をしていました。今思うと、よくやったものだと感心します。ただその中で、いつもどう語ったらいいのか、頭を悩ましてしまう聖書箇所がありました。

 それは、いやしや死者の復活といった奇跡物語です。菰野聖マリア教会には、施設の入居者の方々が多く集います。その中には身体の自由がきかず、小さい時から親元を離れて施設で暮らす人もいました。

 また高齢になったために、若い時のように自分でいろいろなことをすることができなくなって、家族がその方を施設に入れられた、そういうこともありました。目が見えない、手が使えない、会話ができない。そのような人たちがたくさんおられる教会です。

 そこで聖書のいやしの物語に接するたびに、「神さま、わたしは何を語ったらいいのでしょうか」と祈ってきました。彼らはその聖書の言葉を聞いて、何を思うのだろう。なぜ自分には、イエス様のいやしの業がおこなわれないのだろうかとは、感じないだろうか。

 でもその思いは、日を追うにつれて薄くなっていきました。それは聖書のメッセージを聞くその人たちの目に、光を感じたからです。目に見える部分は確かに変わっていないかもしれない。でも目に見えないところで、イエス様がこの方々に手を伸ばし、そして共にいてくださっているのだという確信を得ることができたからです。

 今日の福音書に描かれているラザロの物語を少し見ていきましょう。ラザロは三人きょうだいでした。ラザロはマルタとマリアという姉妹と共に、ベタニアという場所に住んでいました。あるときラザロが病気にかかります。それは死に至る病だったようです。

 マルタとマリアはイエス様の元に人をやって、ラザロのその状況を伝えます。ラザロたちきょうだいとイエス様とは、とても関係が深かったようです。イエス様なら何とかしてくれると思ったのでしょう。しかしイエス様は、その地になお二日間留まりました。

 「神さま、今すぐ何とかしてください!」、わたしたちもそのように祈ることがあります。でもその祈りが自分の思っているタイミングどおりに聞かれないということ、これも多くあるわけです。この時のマルタとマリアも同じように思ったのではないでしょうか。「どうしてイエス様は、すぐに何とかしてくれないの」と。

 マルタとマリア、この二人の姉妹は聖書の他の箇所にも登場します。ルカによる福音書10章38節から42節です。このときイエス様は、マルタとマリアの住む家に来られました。お姉さんのマルタは、イエス様の接待で大忙しでした。しかし妹のマリアはイエス様の前にちんと座って、じっとその話を聞いていました。

 マルタはイライラして、イエス様に言います。「わたしだけがもてなしをしているのを、なんとも思わないのですか。妹のマリアにも手伝うように言ってください」と。しかしイエス様はそんなマルタに、「マルタ、マルタ」と語り掛けます。

 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」。「必要なことはただ一つ」、イエス様はマルタにそう教えられたのです。

 今日の福音書でイエス様がようやく墓に葬られたラザロの元に来たとき、マルタとマリア、二人の姉妹の行動には違いがありました。マルタはイエス様が来られたと聞いて、すぐに迎えに行きました。マリアは家の中に座ったままでした。

「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」という言葉は、マルタの口からも、そしてマリアの口からも同じように出ました。しかしマルタはイエス様に対して、続けてこう言ったのです。

 「しかし、あなたが神にお願いになることは何でも神はかなえてくださると、わたしは今でも承知しています」。そしてさらに二人で問答を続けた後、最後にマルタはイエス様に対してこう言うのです。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」。

 これは、マルタの信仰告白でした。このときラザロはというと、まだお墓の中です。つまりイエス様は、まだラザロを生き返らせたわけではなかったのです。ということはマルタは、ラザロの肉体的な回復がきっかけで、信仰に至ったのではなかった。彼女は「復活であり命である」と語られたイエス様を、しるしを見ることなく信じたのです。

 イエス様はその後、ご自分の前で涙を流すマリアやユダヤ人たちを見ます。ラザロの死を悲しんでいるのです。その様子を見て、イエス様もまた、涙を流されます。この涙には、どのような意味があるのでしょうか。

 すぐに思いつくのは、イエス様がマリアたちの心に寄り添ってくださったということです。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさいという言葉がありますが、その通りのことをイエス様がなさったということです。

 このことは、わたしたちにもとてもうれしいことです。わたしたちが悲しみの中にあるときに、イエス様が一緒に涙を流してくださる。わたしたちが苦しんでいるときに、イエス様がその重荷を負ってくださる。その姿を思い描いたときに、わたしたちの心は安らぎを得られるのではないかと思います。

 そしてもう一つ。この涙は、「見ないのに信じることができない」、そのような人に対する悲しみの涙なのかもしれません。マルタが信仰告白したにもかかわらず、マリアたちは絶望の涙を流し続けている。イエス様がなぜ来られたのか、どこまでわかっているのだろうかと。

 でもまもなく、その本当の意味がわかります。マリアたちの前で目に見えるしるし、ラザロの復活はおこなわれました。

 しかしそれは一時的なものです。ラザロはいずれ、天に召されたことでしょう。またそれは、限られた時代の、限られた場所でしかなされなかった出来事です。わたしたちとは遠く離れた、時間と場所での出来事でした。

 神さまは、そのような一時的で、一部の人たちにしか関わることのできない救いを与えたのではありません。すべての人を、時代も、場所も超え、わたしたち一人一人を含むすべての人を生かすために、イエス様をお与えになったのです。

 イエス様の十字架は、わたしたち一人ひとりを救い出し、神さまの元で歩む者へと変えてくれます。それは決して、目に見えるものではありません。病気がいやされたり、死んだ人が行き返ったりということが、今、必ず起こるわけではないのです。

 でも、確実に、生きる力が与えられます。菰野の施設の方々の目が光り輝いたように、神さまがわたしたちを導いてくださる、イエス様がいつもそばにいてくださるということをマルタのように信じることができたならば、わたしたちには本当の命が与えられるのです。

 イエス様の十字架のときが近づいてきました。しかしその先には、わたしたちにとっての希望が待っています。そのことを信じ、日々、祈ってまいりましょう。