2021年5月2日<復活節第5主日>説教

「イエス様とわたしたち」

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ヨハネによる福音書14章15~21節

今日の福音書で読まれた箇所は、すべてイエス様の言葉です。イエス様はすでに、ご自分の十字架が近いのをよくご存じでした。もうすぐご自分が弟子たちのそばから離れていくのを知って、イエス様は語られたのです。

 だからこそこの言葉は、今のわたしたちにとって必要なのではないでしょうか。神さまはきっと近くにいてくださる。でもその存在を感じることができない。神さまに支えてほしい。でも本当にいてくださるのかわからない。そう思うこと、あるかもしれません。教会に来ることが出来ず、信仰の友との交わりも控えざるを得ない。礼拝の中で、うどんを食べている中で感じられた神さまの愛に、触れることのできない今だからこそ、イエス様がなさった告別説教の言葉に聞きたいと思います。

 今日の箇所、このイエス様の言葉に対して、新共同訳聖書はこのような小見出しをつけております。「聖霊を与える約束」と。

 今日の箇所の中でイエス様は、別の弁護者、真理の霊を与えられると約束されました。それが聖霊なのだとしたら、一体それはどういうものなのでしょう。わたしたちは、聖霊をどのように理解していけばよいのでしょうか。

 「聖霊ってなんですか」、そのように聞かれることがよくあります。聖霊って目には見えないし、どこに、どんな形で存在しているのかわかりません。だからわたしたちはついつい見失うし、自分は見捨てられてしまったのではないかと勘違いしてしまう。そして考えてしまうのです。聖霊って何だろうって。

 聖霊、その言葉の意味を考えてみましょう。聖霊は聖なる霊、Holy Spiritのことです。この霊にあたる言葉は、聖書の中では別の意味でも使われています。たとえば風や息、呼吸といった意味で使われています。たとえば聖霊降臨日の物語として、わたしたちはよく、使徒言行録2章の物語を思い浮かべます。弟子たちが一堂に集まって祈っている中に、突然風が吹き荒れ、弟子たちの頭に炎のような舌が現れたという物語が、そこには描かれています。この「風が吹き荒れ」という場面を、神さまの霊があたりに吹き荒れたと考えてみるとどうでしょう。彼らはその風によって強められ、人々に対してわかる言葉で語り始めたというのです。また息という言葉からは、同じく聖霊降臨日に読まれるヨハネによる福音書20章22節のこの場面が思い起こされます。

 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」

 風や息を感じるように、神さまを感じることができたら、どんなに素晴らしいことでしょうか。聖霊というちょっと小難しく感じる言葉が、もっと、もっと身近なものとなれば、とてもうれしいことです。

 先日、幼稚園の週末礼拝でこんなお話しをしました。天地創造の物語です。神さまが何にもないところから、世界を造られました。神さまが第一日目になされたことから順番に話していきます。まず「光あれ」と言って光と闇を分けられた。その後、大空を造られ、草や木といった植物を造られ、太陽や星を造られ、魚を造られ、そして動物を造られていきます。

 そして子どもたちに質問するんですね。「さあ、神さまはたくさんのものを造りました。でもまだ造られていないものがあります。それは何でしょう」って。わたしの思いとしては、「人」、「人間」という答えを期待するんですが、そうはいきません。

 「おうち」とか「幼稚園」とか「おもちゃ」とか、そんな答えが飛び交うんです。多分、まさか自分が神さまに造られたなんて、想像もできないんでしょう。でもわたしたちは神さまによって造られた、ということを、子どもたちにはしっかりと伝えていきたいのです。だから「神さまはねえ」、と話を続けます。「そこらへんにあった土を集めて来て、コネコネ、コネコネって、土でお人形を作ったんだ」、そう言うと、子どもたちも泥遊びが大好きですから、神さまが楽しそうにギュッギュッ、コネコネってやってる姿を想像します。そして神さまはその土人形をどうされたのか、「神さまはね、その人形のお鼻のあたりに口を近づけて、『ぷぅー』って神さまの息を入れたんだよ。その『ぷぅー』って吹き込まれた神さまの息によって、その人形は起き上がって動くようになったんだ。それが最初の人間だったんだよ」。

 ここまでだと、ただの昔話です。でもその次が大事なんですね。「その神さまの息はね、みんなの中にも入れられているんだ。神さまはみんな一人ひとりに『ぷぅー』って、神さまの息を入れてくださっている。だから神さまはいつも一緒にいてくださるんだよ」。

 これが神さまの息、聖霊なんです。神さまの大切な子どもであるわたしたち一人一人に対して注ぎこまれた息、一人ぼっちにはしないために、わたしたちを苦しみから守るために、わたしたちを生きる者とするために、『ぷぅー』とわたしたちの心に向けて注がれた息、聖霊をわたしたちは感じていきたい。

 子どもたちはこの話を聞いて、何だかうれしそうな、それでいて恥ずかしそうな、なんとも言えない表情を浮かべます。でも心が少しでも温かくなったら、それは神さまからの息、聖霊の働きなのだろうと思います。

 このコロナの時代、人との距離は2m取りなさいだとか、会食をするときもマスクをしなさいだとか、県をまたいで行動したり、普段一緒に生活している人以外とはできる限り会わないようにしなさいだとか、様々な制限があります。

 しかし、神さまの息、聖霊にはそのような制限はありません。わたしたちに直接働きかけてくれるのです。このコロナの中だからこそ、その聖霊の働きを信じ、聖霊の働きが今日礼拝堂にくることのできないあの人のところに、教会から心が離れてしまったあの人のところに、そしてイエス様をまだ受け入れることのできないあの人のところに、豊かにありますようにと祈りたいと思います。

 そして何よりも、わたしたちの元に神さまは息を送り続けておられることを、しっかりと心に留めていきましょう。神さまは決してわたしたちをみなしごとはなさいません。