2021年5月16日<復活節第7主日(昇天後主日)>説教

「イエス様の祈り」

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ヨハネによる福音書17章11c~19節

 教会は先週の木曜日、13日に昇天日を迎えました。昇天日とは何か、「キリスト教歳時記」という本の中で、八木谷涼子さんはこのような説明されております。

 (昇天日とは)復活したイエスが、弟子たちの目の前で天に昇ったことを記念する祭日。イエスは甦りののち、四十日間にわたって神の国について語ったあと、「まもなく聖霊がくだる」と弟子たちに預言したのち、天にあげられていった。この「使徒言行録」第1章の記述を元に、四世紀後半に定められた祝日である。イースターに合わせて移動するため、西方では430日から63日の間にやってくる。クリスチャンの理解では、昇天によって復活のわざが完成され、イエスはいま神の右に座し、全人類の救いの支配者となっている。

 イエス様は復活されたあと、40日にわたって弟子たちにその姿をあらわされ、神の国について語り続けられました。その中で聖霊を与えるという約束も、語られたわけです。そして復活から40日が経って、天へと昇られました。

 この天に昇られた出来事、昇天によって、復活のわざは完成しました。そしてイエス様が神さまの右に座してくださったことにより、わたしたちは救いの中に入れられた。これが昇天日の意味なのです。

 わたしたち聖公会は、教会暦を大切にしていきます。降臨節から始まって、降誕、顕現、大斎、復活、昇天、聖霊降臨と続いていきます。この暦を、わたしたちはどうして大事にしていくのでしょうか。それはイエス様の生涯や出来事を追体験することによって、イエス様の十字架から2000年経った今も生きて働いておられる神さまのみ業を覚えるためです。つまり聖書に書かれた事柄は、単なる昔話だと捉えずに、今、わたしたちの間にも起こっている出来事だと考えるのです。クリスマスもそう。十字架もそう。復活もそう。そしてイエス様が昇天されて聖霊を待っているこのときも、自分たちに置き換えて考えるのです。

 イエス様が天に昇られてから10日の間、弟子たちは何をしていたでしょうか。彼らは集まって、聖霊がくだるのを待っていました。イエス様は自分たちのそばにはいない。でも聖霊を与える約束をいただいた。そのことを信じて、祈り続けたのです。

 今のわたしたちはどうでしょう。わたしたちのそばに神さまが感じられなくなるとき、イエス様の導きが、温もりが信じられなくなるとき、ないでしょうか。聖霊を与えられるという約束をいただいたものの、その実感がない。それどころか自分のところになんか神さまは手を差し伸べてくれないのではないか、そう思う。そんなことはないでしょうか。

 このコロナ禍の中、わたしたちは様々な葛藤の中で生きています。神さまはいつ振り向いてくれるのだろうか。顧みてくれるのだろうか。憐れんでくれるのだろうか。その思いの中で、聖霊の導きを求めるそのときに、わたしたちは何をすべきなのでしょうか。どのように時を過ごすべきなのか。今日、そのことをみなさんと分かち合いたいと思うのです。

 今日、イエス様が昇天され約束の聖霊を待っている主日に読まれる福音書は、イエス様のお祈りです。今日の福音書では読まれなかった部分も含めて、ヨハネによる福音書17章全体を是非お読みください。そこにはイエス様のわたしたちに対する思いが詰まっています。

 イエス様がわたしたちのために祈ってくださっている。そのことをまず、わたしたちは心に留めていきたいと思います。昔、神学生の時に、神学館の館長にこんな話を聞いたことがあります。当時の館長は神戸教区の方でした。1995年の阪神淡路大震災のとき、彼は被災地でいろいろな指揮をとる立場だったそうです。震災以降、無我夢中で働いたそうです。ある主日、彼は自分が司式する礼拝の中の、代祷項目に目が留まります。そこには「阪神淡路大震災のため」の祈りがあったそうです。そのときにふと、全国の教会で、そこに集うたくさんの人たちが、共に祈っている姿が心に浮かんだ。そのときに涙が出たと言われていました。

 わたしたちは知らないところで、たくさんの人たちから祈られている。そして何より、イエス様がわたしたちのために祈ってくださる。だからわたしたちもまた、誰かのために祈ることができるのです。

 この構図、何かに似ていませんか。先週語った「愛」とわたしは同じなのではないかと思っています。わたしたちは「互いに愛しなさい」と命じられている。しかしそれには前提があるんです。まずわたしたち自身が、愛されているということを自覚すること、神さまの大きな愛の中に生かされていることに気づかされることが大事なのです。

 逆に言うと、その神さまからの愛が根っこになければ、どれだけ自分は隣人を愛していると言ったって、そんなものは無に等しいのです。様々な場所で批判ばかりを繰り返し、挙句の果てには人の愛を否定する。それは神さまの愛から離れてしまっているのです。

 祈りもそうです。わたしたちは祈る前に、すでに祈られている。とりなし主であるイエス様によって祈られている。そしてみんなの祈りの中で生きている。祈りの中に生かされていることに気づかされるのです。

 わたしたち一人一人の祈りは小さいかもしれません。でもイエス様の祈りに支えられ、共に祈るときに、わたしたちには平安が、そして命が与えられるのです。

 愛と祈り、それはきっと、同じことなのです。だれかを愛すること、そしてだれかのために祈り続けること、そこには同じ思いが働くのです。そしてその二つ、愛と祈りに共通していること、それはまず与えられているということです。

 わたしたちは愛され、祈られている存在なのだ。神さまの目から見たら高価で尊い一人ひとりなのだということを、どうぞ忘れないでください。

 神さまはちっぽけなわたしたち一人一人に聖霊を与えて下さいます。来週の聖霊降臨日に向けて、その恵みが一人でも多くの人の元に、わたしたちがお祈りで覚えるその人の元に与えられますよう、お祈りしていきましょう。