2024年5月26日<三位一体主日・聖霊降臨後第1主日>説教

「こどもとともにささげる礼拝」

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 マルコによる福音書10章13~16節

 今朝は、「神さまのみことばと恵みのわかちあい」という新しい式文を使って、こどもとともにささげる礼拝を行っています。昔から、礼拝といえば、子どもための日曜学校と大人の礼拝に分けて行われてきました。けれども最近、欧米では、それらの礼拝と並行してファミリーワーシップという、大人も子ども若者も一緒にみ言葉を聞き、感謝と賛美をささげる少しにぎやかな礼拝を行う教会が多くなってきました。考えてみれば、私たちはみんな神さまの子どもなのです。ですから、大人も子どもも、教会に何十年も通っている人も、今日初めて来た人も、洗礼受けた人も受けていない人も、みんなで神さまを思い、神さまに感謝する時間を持つのってごく自然だし、素晴らしいことだと思います。

 今日は三位一体主日、父と子と聖霊という神さまを覚える日曜日ですから、少しこの三位一体の神についてちょっとお話したいと思います。通常日本語では、三つの位、一つの体と書いて、「さんみいったい」と読みますが、日本聖公会では、「さんいいったい」という読み方で統一しています。私たちの信じる神さまは、父と子と聖霊というこの三つで一つの神さまなのです。決して神さまが3人いるのではなく、3人はそれぞれ神さまでありながら、3人は同じ神さまということです。よく意味が分かりませんよね。神さまを私たち人間の頭で理解するのはそもそも不可能なのです。古代の神学者アウグスティヌスは、こう言ったといいます。「あなたが理解できるならそれはおそらく神さまじゃないよ」と。三位一体の神さまというのは、理解するものではなく、信じるものなんですね。これはおそらく子どもたちの得意分野です。今朝の聖書の「子どものようでなければ、神の国に入ることはできない」というイエスさまの言葉に、頷かされます。

 そのように、神さまは私たちには理解できません。たぶん、私たちの足元にいるありんこが、私たち人間の姿を丸ごと見ることが絶対できないのと同じ感じでしょうか。でも、決定的に違うことがあります。それは、人間は足元にいるありんこにまったく関心がないけれども、神さまはご自分の足元にいるちっちゃな、ちっちゃな私たち一人ひとりに関わりたい、話がしたい、友だちになりたいと強く願っておられるということです。それが、聖書を読んでいると分かってきます。

 まず、父と子と聖霊の最初に出てくる、父なる神さまですが、このお方はこの世界とわたしたち一人ひとりをお造りになりました。なぜでしょうか? これも神さまにしかわかりません。でも、神さまは何か、素晴らしい!と思えるものをお造りになりたかった。その素晴らしい!というものは何かというと、だれかをギューッと抱きしめたくなる感覚、その人が大切で大切でしかたないと思う気持ち、愛です。それをこの世界にいっぱいにしたくて、人間を造られました。最初、できたばかりの世界は神様ご自身がこれ以上のものはないと自画自賛なさるほど、それは素晴らしい、天国のようなところでした。ところが、最初に造られた人間、アダムとエバは神さまの言うことを聞かず、その天国から追い出されてしまいます。そうして、人間は、それまで神さまといつも仲良く暮らしていたのに、神さまの足元のちっちゃなありんこのようになってしまい、神さまの本当の姿が分からなくなってしまったのです。でも、父なる神さまは、どうしてももう一回人間と話がしたかった、仲良くなりたかった。なぜなら、人間は神さまにとって、大切で大切でしかたない、ギューッと抱きしめたくなる存在だったからです。その神さまの一方的な愛をもう一度人間に伝えるため、神さまは人間となってこの世に来られました。それが、私たちの良く知る、子なる神、イエス・キリストです。

 イエス様は神さまの言葉を伝え、神さまの愛を行動をもって人々に示しましたが、人間はそれを受け入れられず、イエス様を十字架につけて殺してしまいました。

 でも、これは神さまのご計画だったのです。ご計画通りにイエス様は三日目によみがえられました。その日をお祝いするのが復活日です。その後40日間にわたってイエスさまは、この地上で弟子たちと過ごされました。けれども、40日目に弟子たちの目の前で天に昇られ、父なる神のもとに帰って行かれたのです。そのうちみんなに聖霊がやってくるから待つようにと言い残して。弟子たちは、待ちました。いつくるかな、もうすぐかなとそわそわしながら。私は思い出すのです。小さな子どもだった時のこと、母がひとりで外出しなければいけない用事が出来て、「おうちで待っててね。すぐ帰るからね」と留守番を頼まれます。最初は、「お母さんがいなくてもお留守番できるもん!」と本を読んだり、おもちゃで遊んだり何でもない事のようにすごしますが、時間が経つにつれ、だんだん心配になってきます。まだだろうか。お母さん、車にひかれちゃったんじゃないだろうか。本当に帰ってくるのかな。帰って来なかったらどうしよう...目に涙をいっぱいためて私はよくお祈りしました。「神さま、どうかお母さんが帰って来てくれますように。もう嘘ついたり悪いことしませんから、お母さんを帰してください」そんな風に泣きながら祈ってると、「ただいまー、ケーキ買ってきたわよー」といういつもの優しい声が玄関から聞こえてきて、あーよかった!神さまありがとう!と涙を拭いたものです。

 弟子たちはもちろん、こんな泣きべそではなかったでしょうが、待つうちに少しずつずつ不安も募っていたのではないでしょうか。弟子たちは一つの部屋に集まり、みんなで祈っていました。イエス様が天に昇られてから10日目のことです。突然、風の吹くような大きな音がして、イエス様がいなくなる前に約束されていた、聖霊が弟子たち一人ひとりの上に降りました。弟子たちは聖霊を受けて、勇気100倍になって、イエス様のことを、神さまを知らないたくさんの人々に伝えに外国まででかけて行き、教会を作ったのです。この聖霊は、まさしく、私たち一人ひとりをギューッと抱きしめたいという神さまの思いであり、今もわたしたちに注がれています。その聖霊を受けて私たちは神様がどんなときも一緒にいてくださることを知り、神さまを信じ、互いに愛し合い、隣にいる人を自分と同じように大切に思うことができるのです。

 父と子と聖霊。この三つで一つの神さまのしくみは、私たちの頭ではとても理解できません。でも、確かなのは、昔も今もそしてこれからも私たち一人ひとりをとても大切に思ってくださっていること、そして、私たち一人ひとりと出会いたい、友だちになりたいと思ってくださっているということです。だから、今日の聖書で聞いたように、神さまはみんなを招いてくださっているのです。大人だけじゃなく、子どもだけじゃなく、いい子、いい人だけじゃなく、洗礼を受けている人だけじゃなく、みんな、この地球という星に生きている人一人残らず全員に、「おいで、いっしょにごはんを食べよう!」と呼びかけてくださっているのです。

 今日は、これから「神さまの恵みのわかちあい」を行います。私たちの教会では、いつもの日曜日は聖餐式といって、イエス様が十字架にかけられる前に、弟子たちに対し、私を信じるしるしとして行いなさいと言われた、パンとぶどう酒をイエスさまの体としていただく儀式を行っています。それは、これからの人生、イエスさまについていきますと決めて洗礼を受けた人がその信仰を確かめるものです。けれども、今日は、神さまを信じてるかどうかまだわからないよというみなさんも一緒に、ただただ、神さまからのおいでー!という呼びかけに応えて、神さまの恵みを分かち合いたいと思います。神さまのお恵みをいただくのに何の条件もいりません。ただただ「ありがとう」と言うだけでいいのです。

 父と子と聖霊なる神さまの愛とお恵みが、いつもみなさんと共にありますように、アーメン