2023年6月18日<聖霊降臨後第3主日(特定6)>説教

「深く憐れむ方」

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 マタイによる福音書9章35節~10章8節

 「群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」。イエス様が群衆を見て、深く憐れまれたということ。今日はまずこのことについて、分かち合いたいと思います。

 さて、「憐れみ」と聞くと、皆さんはどのようなイメージを持たれるでしょうか。辞書で調べてみますと、このような意味が載せられていました。「不憫に思う、同情する、気の毒に思う、慈悲の心をかける、恵む」、などなど。たとえば、貧困にあえぐ外国の子どもたちの様子を追ったドキュメンタリー番組があったとします。見ているわたしたちの多くは思うわけです。「かわいそうに」って。そのような思いを一般的に、憐れみと呼ぶのかもしれません。でもその言葉の裏には何か、上から下にというか、どちらかというと恵まれている人から恵まれていない方に思いを一方的に向けるとか、そのようなイメージがあるのかもしれません。

 イエス様は群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれたとあります。この場面を想像する前に、ここに出てくる「憐れみ」という言葉の意味を、もう少し深く考えてみたいと思います。

 さて、この言葉ですが、ただの同情とは違い、自分の内臓がよじれるほどの痛みを負うという意味があります。ある人はこの言葉を、「はらわたが痛む」と訳しました。ギューッと締め付けられるような痛みを感じること、これがこの言葉の意味となります。「胸が締めつけられる」、そのような言葉をわたしたちも使うことがあります。何か自分の力では抱えきれないほどの痛み、苦しみの中にある人に、そっと寄り添い、心を向ける。そのような経験がある人は、きっと大勢おられることと思います。イエス様の深い憐れみ、その言葉は、まさにそのような意味です。ただ遠くから眺めて「かわいそうに」と思うのではなく、悲しむ人と共に涙し、苦しむ人と共に痛む。それだけではなく、共に歩もうと手を差し出す。肩を貸す。抱きかかえる。

 イエス様の周りに集まってきた人たちは、打ちひしがれていました。明日の希望を見出すことができず、日々の暮らしで精いっぱい。体は疲れ果て、心も折れてしまっているのに、誰も一緒に泣いてくれない。イエス様はそんな一人一人を、慈しみ、包み込んでくださる。自分のこととして、共感してくださる。それが今日わたしたちに与えられた、第一のメッセージです。「疲れた者、重荷を負う者は誰でも、わたしのところに来なさい。休ませてあげよう」。その言葉を思い出させるイエス様の深い憐れみは、わたしたちに力を与えてくれるものだと思います。

 そして今日、第二のメッセージとして心に留めておきたいのは、後半部分のことです。イエス様は群衆を見て深く憐れまれたあと、こう言われました。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。そして続いてイエス様は、12人を弟子として選び、町や村に「天の国は近づいた」と伝えさせます。いわゆる宣教です。しかし今日の箇所の流れからは、わたしたちが思い描くような宣教だけではない、何か違うこともあるような気がするのです。

 先週の火曜日、朝祷会の中で、ある宣教団の先生の証しを聞く機会を与えられました。彼は10数年という長い期間ベトナムで宣教をされ、その後日本に戻って、今度は宣教師を派遣するという働きをされています。その中での体験を、柔らかい口調で楽しく語ってくださいました。

 彼が大切にしてきたこと、それは「現地の人と同じものを食べる」ということだったそうです。彼がベトナムに行っていた頃、そこには欧米からも宣教師が派遣されていたそうです。しかし彼らの多くは、現地の人とは違う物を要求していたそうです。当然みんながみんな、そういう人ではないでしょう。でも多くの人は、自分たちの口に合いそうなものを運んでもらい、食べていた。

 そんな中、彼は現地の人と同じものを食べ、ときにはカラスも食べたとのこと。さすがにそのときは、あとから「それはカラスの肉だ」と言われてギョッとしたということでしたが。

 一緒に食事をするということ。それは実は、とても大切なことです。食事を一緒にすることで相手と会話が成立しますし、また食卓を共にすることで、相手との心の距離は縮められます。そして相手の気持ちを知り、その思いを自分のものとして共感する。教会ではこの三年間、コロナのために一緒に食事をすることが制限されてきました。食事ができないということは肉体的な空腹だけではなく、心の交わりをも制限するものだと感じました。

 ようやく、日曜日の内の数回ということではありますが、一緒に食事をすることができるようになってきました。そこでぜひ、みなさんにお願いしたいことがあります。普段あまり話したことがない人がいたら自分のテーブルにお誘いしてください。いつもすぐに帰られる人がいたら、「今日は時間、どう?」と話しかけてください。それはイエス様がわたしたちに命じられた宣教が、そのようなものだからです。誰かのそばにいて、その思いに共感すること。「深く憐れまれた」と聖書が記すイエス様の人々への関りを、わたしたちもまた同じようにおこなうこと。それがわたしたちに求められていることなのではないでしょうか。

 「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。そのイエス様の言葉を聞くわたしたちは、働き手って誰だろうとまず探します。牧師であったり、宣教師であったり、神学生であったり。そのような「特別」な人が見つかるようにお祈りする。それも大事なことなのでしょうが、もっと大切なことがあるように思います。それは、あなた自身が働き手になることです。わたしたちが一般的に思い描く、いわゆる「宣教」の働き手であれば、ハードルは高いのかもしれません。しかしイエス様の深い憐れみに倣い、周りの人と接すること。それが今日、わたしたちに示された宣教であるならば、わたしたち一人一人は大きな働き手となれるのです。

 そう考えていくと、わたしたちの教会は働き手であふれていることがわかります。多少制御できないところもあります。お互いがあっち向いたり、こっち向いたりしているところもあるかもしれません。でも、それでいいのです。

 それぞれが与えられた賜物を生かし、周りの人と一緒に生きていく。イエス様がわたしたちに対してなさったことを、わたしたちもまたおこなっていくことができれば、こんなに素晴らしいことはないと思います。

 わたしたちに何ができるのか、わたしたちには何が示されているのか、ご一緒に祈り求めてまいりましょう。