2024年3月17日<大斎節第5主日>説教

「実を結ぶために」

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 ヨハネによる福音書12章20~33節

 「一粒の麦 地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、もし死なば多くの実を結ぶべし」。今読まれた福音書の一節を文語でお読みしました。この言葉の方をよく覚えているし、心にスッと入るという方もおられるでしょう。

 今日の福音書の場面は、イエス様がエルサレムに迎え入れられた直後の出来事でした。エルサレムに来ていたギリシア人が、イエス様に一目会いたいと弟子のフィリポに申し出ます。その中で、イエス様は語っていくわけです。

 イエス様は、「人の子が栄光を受ける時が来た」と語られ、さらに「はっきり言っておく。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」と続けます。そして、こうも語られるのです。「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る」と。しかしこのイエス様の言葉は、多くの人に躓きを与えて来たと言われます。

 というのも、わたしたちは「愛する」ということこそすべてにおいて尊ばれ、大事にされるべきことだと思っているからです。イエス様は別の場面でこんなことを言われました。あるとき律法学者がイエス様に近づいて来て、こう聞くわけです。「先生、あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」と。それに対して、イエス様はこう答えられました。「第一の掟は、これである。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい』。この二つにまさる掟はほかにない」。

 一つは、神さまを愛すること。そしてもう一つは、自分のように隣人を愛すること。自分のように、ということですから、自分を愛するということはその根底にあります。つまりあなたはまず、あなた自身のことを愛しなさい、何よりも大切にしなさいということなのです。

 それに対して今日のイエス様の言葉、「自分の命を憎む者」というのは、何やら自分の命をないがしろにするようなイメージが与えられます。昔の神学者はこの言葉について、こんな警鐘を鳴らしたといいます。「これは決して、自殺を促しているものではない」と。

 では、いったいどういうことでしょう。簡単に言うと、自分が自分の命の主人公になってはいけないということです。自分の命を愛する、それは自分の人生は自分で組み立て、自分の思い通りになると思い、自分の力で切り開いていくものだと考えることです。

 わたしたちが完璧な人間であれば、それでいいでしょう。神さまの前に正しく歩んで行けるのであれば、何ら問題はないはずです。ところがそうはいかないのが、わたしたち人間なのです。

 大斎節も終盤に入る中、わたしたちは自分の弱さを知り、自分の力だけでは神さまの前に立つことなどできないことを思い知らされます。でもだからこそ、イエス様の十字架が必要なのです。

 イエス様は一粒の麦として、地に落とされました。神さまがその独り子の命だけを愛そうと思ったのなら、その一粒の麦をずっとずっと大切にしていたことでしょう。そして麦はいつまでも一粒のままだったと思います。

 しかし神さまは、決断なさったわけです。イエス様という一粒の麦にだけ固執するのではなく、その一粒の麦を本当に生かすために、一度土の中に埋めるということを。それはすなわち、死を意味するのです。

 しかもその死は、ただの死ではありませんでした。逮捕され、侮辱され、十字架を担わされ、十字架を運び、何度も倒れ、悲しみ嘆く人たちの前で十字架につけられ、苦しみのなか息を引き取る。そのような受難の道を選択されたのは他ならぬ神さまであり、そしてイエス様もそれを受け入れられたのです。

 それはひとえに、イエス様がわたしたちの罪を背負うためです。本来であればわたしたちが担わなければならなかった十字架を一人で背負われ、わたしたちの罪を引き受けて下さった。それがイエス様の十字架の意味なのです。

 ただ神さまは、イエス様の十字架を単なる「死」では終わらせられませんでした。一粒の麦が地に蒔かれながらも実を結ぶように、神さまはイエス様を栄光の座へと引き上げられるのです。

 さて、それではわたしたちは、どう生きていけばよいのでしょうか。今日の「一粒の麦」、それは何もイエス様のことだけを指しているのではありません。わたしたち一人ひとりの命も、一粒の麦だと告げられているように思います。

 わたしたちが自分の命に固執し、その一粒の麦をギュッと握りしめ、肩ひじ張って生きていくならば、その命は失われるのです。それは神さまのみ心ではありません。イエス様があなたの代わりに十字架に向かって歩まれたのだから、あなたはその歩みに身を委ねていけばよい、そういうことなのです。

 自分の命を憎むという言葉がありました。この「憎む」という言葉、聖書はギリシア語で書かれていますが、この言葉には別の意味があります。それは「無視する」という意味です。

 ですから、自分の命を憎むということは、自分の命を無視するとも解釈することができます。自分の命のことなど、自分で気に病むことはない。それは、お委ねできる方のことを、わたしたちは知っているからです。

 イエス様は言われました。「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」。その言葉をわたしたちは信じているから、ギュッと握りしめたこぶしを広げ、イエス様の手をつかむことが出来るのです。

 もうすぐ、イエス様の十字架のときを迎えます。その苦しみは、わたしたちのためのもの。その痛みは、わたしたちを生かすためのものです。そしてその根底には、神さまのわたしたちに対する愛があるということ、心に留めながら、その一つ一つの出来事を思い起こしてまいりましょう。

 そしてわたしたちが神さまにすべてを委ね、歩んで行くことができますように、お祈りを続けていきましょう。