2024年1月14日<顕現後第2主日>説教

「出会う」

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 ヨハネによる福音書1章43~51節

 今日わたしたちが与えられた聖書ですが、旧約聖書と福音書とに、同じテーマの物語が選ばれていました。そのテーマとは、「召命」です。命が召されると書いて、召命。「弟子にされる」と言ってもいいかもしれません。

 旧約聖書に出てくるのは、サムエルでした。サムエルはある夜、こんな声を聞きます。「サムエルや」。サムエルは祭司エリが自分を呼んだのだと思い、エリの元に行きますが、エリは否定します。同じやり取りが繰り返され、三度目になってエリは、サムエルを呼んでいるのは神さまだと悟ります。そこでサムエルにこう言います。「もう一度呼ばれたら、『主よ、お話しください。僕はきいております』と答えなさい」と。

 そして福音書に出てくるのは、フィリポとナタナエルの召命物語です。まずフィリポが弟子になった様子は、とても簡潔に書かれています。「その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、『わたしに従いなさい』と言われた」。聖書に書かれているのは、それだけです。フィリポがイエス様に何か語ったわけでも、またイエス様の言葉に対して何か答えたわけでもありません。しかし聖書の小見出しには「弟子となる」としっかり書かれ、また現に12弟子の一人としてイエス様と行動を共にしていくことになるのです。フィリポは、感覚的にイエス様を受け入れたのかもしれません。

 このフィリポの出来事は、わたしたちのイエス様との出会いと重なるかもしれません。わたしたちはイエス様を知的に求めたのでしょうか。論理的にイエス様が必要だということが証明され、その結果、イエス様を受け入れることにしたのでしょうか。そうではなくイエス様との出会いは、わたしたちにとって説明しがたいことなのではないでしょうか。なぜイエス様を感じ、どうして受け入れ、そして何がきっかけでイエス様に連なって行こうと決心したのか。大まかには言えたとしても、細かい部分まで説明するのは難しい。フィリポの弟子物語も、同じだったのかもしれません。

 しかし今日の物語の中で、それ以上に注目したいことがあります。それはナタナエルのことです。ナタナエルはフィリポと共に救い主が現れるのを待ち望んでいたであろう人物です。

 ある日、フィリポが自分に言うわけです。「わたしは、モーセが律法に記し、預言者たちも書いている方に出会った」と。彼はしかし、否定します。「ナザレから何か良いものが出るだろうか」。彼は疑いの目で、見ていました。イエス様に出会ったフィリポに対し、「それは救い主ではないのではないか」と答えたのです。

 旧約聖書の祭司エリとサムエルの話、そして福音書のフィリポとナタナエルの話。実は二つの話には、大きな共通点があります。それは祭司エリもフィリポも、「行って、出会ってきなさい」と促しているところです。エリはサムエルに対し、神さまの呼びかけに応じて「主よ、お話しください。僕はきいております」と答えるように言いました。部屋に戻って行って、神さまの声に応答する、つまり神さまに出会うように伝えるわけです。ナタナエルもフィリポに対し、「来て、見なさい」と言われます。実際にイエス様のところに行きなさい。そして見てみなさい。そのようにフィリポは促し、その言葉通りにナタナエルは行動したのです。

 宣教という言葉があります。奈良基督教会にも宣教グループというものがあり、活動をしています。さて、宣教っていったい何でしょう。それはとても大きな命題です。昨年11月に清里でおこなわれた宣教協議会においても、様々な議論が繰り広げられていったと聞きます。今回、来月におこなわれる堅信受領者総会の要項を作成するにあたり、昨年までの宣教目標をすこし改訂しました。次の五つをあげています。

1、聖書のみ言葉に聞き、また日々祈りましょう。

2、み言葉と聖餐によって養われるため、毎週の礼拝に出席しましょう。

3、新しく来られる方を歓迎し、洗礼を受ける人が与えられるように祈りましょう。

4、お互いの違いを認め合い、居心地のよい教会になるように心がけましょう。

5、神さまの愛がすべての人に注がれるよう、祈りましょう。

 実はこの5つを考えるときに、大切にした思いがあります。それは、宣教とはわたしたちが何かを伝えるのではなくて、イエス様に出会ってもらう手助けをすることだという思いです。わたしたちを伝えるのではなく、イエス様と出会う。そのためにどうしていくのかを、あげていきました。言うなればわたしたちは、セッティング係です。ありとあらゆる「神さまとの出会いの場」を設けていくのです。当然礼拝もそうですし、クリスマスやイースターの祝会、コンサートなどのイベント、礼拝堂の見学対応もそうでしょう。教会がすべてを伝えて行くのではなく、教会が神さまとの出会いの場となるのです。

 ただし教会と言っても、それは単なる建物を指しているのではありません。わたしたち一人ひとり、イエス様に連なる一人ひとりの集まりこそが、神の宮、教会です。ですからわたしたち自身も、いつも神さまと出会うことが大切です。日常の中で聖書のみ言葉に触れ、そして祈る。また礼拝でみ言葉と聖餐に養われ、それぞれの場所に遣わされる。そしてわたしたちが関わる人たちが、神さまと、イエス様と出会うことができるよう、歩んで行きましょう。

 能登半島地震の発生から10日以上経ちました。しかしまだ、暖かい家に住むことが出来ず、お風呂も自由に入れず、十分な食べ物と温もりを得ることができない人たちが多くいます。また愛する人を失い悲しみに暮れている人、行方が分からなくなった人を必死で探す人、ニュースを見るたびに、胸が締め付けられます。教会では2月末まで義援金を集めていきたいと思っています。京都教区には石川県に教会が一つ、子ども園が3つなど、関係諸施設もあり、現在「京都教区能登半島地震対策室」が立ち上げられ、何が出来るのか模索しています。

 それらの情報は、教会の中でも共有していきたいと思いますが、何よりも、祈りましょう。今必要な方のそばにイエス様がいてくださいますように、まず祈りましょう。今回教会では、「能登半島地震を覚えて」というお祈りのカードを作りました。でもこのお祈りに限らず、どうぞあらゆる場面で、ご自分の言葉で、お祈りをしていただければと思います。

 そしてわたしたちに出来ることが神さまから示されたら、一緒に歩んで行くことができればと思います。神さまがすべてのことをよき方向に導いてくださると信じ、お祈りを続けていきたいと思います。