2020年6月14日<聖霊降臨後第2主日>説教

「イエス様の憐れみ」

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マタイによる福音書9章35節~10章8節

また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。(マタイによる福音書9章36節)

 今日わたしたちは、イエス様の「憐れみ」に、心を向けていきたいと思います。この言葉を聞いて、みなさんはどのようなイメージをお持ちでしょうか。

 「憐れみ」という日本語には、「かわいそうに」とか「助けてやろう」、あるいは「保護」という意味合いが強く、上から手を差し伸べてあげるというニュアンスが強いかもしれません。

 しかしこの「憐れみ」という語は聖書の他の箇所にも何度か出きますが、その本来の意味は日本語の「憐れみ」とは少し違ったものです。実はこの「憐れみ」とは、はらわたが締め付けられるようにキューっとなってしまう、そういうことなのだそうです。そしてその思いを感じ、自分自身の心も動かされていく、それが聖書で用いられる「憐れみ」の意味です。

 かわいいわが子がケガをしてしまったときに、同じ箇所が痛く感じたことがあるという方は、少なくないと思います。その痛みを我が事のように感じ、締め付けられる思いがしたということ、経験があるのではないでしょうか。

 イエス様は町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされたという記述から、今日の福音書は始まっています。たくさんの人々と出会い、語り、手を差し伸べてこられました。

 人々の間には、イエス様のうわさが広まっていたことでしょう。そして多くの人たちは思うのです。イエス様に会いたい。声をかけてほしい。手を触れてほしい。どうしてそう思ったのか。なぜなら彼らは苦しみ、悲しみ、絶望の中にいたからです。暗闇の中に落とされ、前を向くことができない、生きていくのがつらい状況の中で、何かに頼りたかったのです。

 その中で耳にしたのが、イエス様のことでした。イエス様に会えば、何かが変わるかもしれない。この泥沼から抜け出すことができるかもしれない。人々はすがるような思いで、イエス様の元に集まってきたのです。

 その状況を見てイエス様は、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれていると感じられました。何を頼っていいのかわからない、どこへ向かっていいか、だれも導いてくれない。毎日迷い、何度も傷つき倒れながら、息も絶え絶えになっている群衆の姿が、そこにはありました。その姿を見て、イエス様は憐れまれた。心が締め付けられたのです。

 少し話は変わりますが、わたしがこれまでの信仰生活の中で、強烈に神さまを感じた出来事がありました。そのことを少し話させていただきます。

 現在当教会の副牧師をしているみさ司祭ですが、彼女も以前の説教でお話ししましたように10年近く前、乳がんを患ったことがありました。そのころは二人ともウイリアムス神学館に通っており、また子どもたちは保育園という状況でした。

 彼女が乳がんになったという事実を知っても、最初はそんなに実感がわきませんでした。「大丈夫、大丈夫だから」。不安の中で涙を流す妻の前で、何て残酷な言葉を掛けていたんだろうと、今になって思いますが、とにかく神さまは一緒にいてくれるし、安心しようと強がっていたように思います。

 その後、ガンの摘出手術をすることになりました。手術の日、子どもたちを保育園に送り届け、手術が無事終わるようにと祈り続けました。手術が終わったころには保育園も終わっており、病室には帰ってきた子どもたちを連れて入っていきました。

 子どもたちは、母親を見た瞬間、固まって動けなくなりました。それはそうでしょう。中にいたのは、朝、元気にバイバイをした大好きなママではなく、酸素吸入器がつけられ、会話をすることもままならない人です。最初は恐る恐る顔を覗き込み、手を握り、声を掛けていったんですが、耐えられなくなって、大きな声で泣き始めてしまいました。

 ずっと病室でそのまま泣き続けさせるわけにもいかず、子どもたちの手を握り、その場から逃げるように立ち去りました。病院から家まで歩いて10分くらいの距離でしたが、どんなになだめようとも、励まそうとも、その泣き声は大きくなるばかりでした。

 ようやく家にたどりつき、静かな部屋に入ったあとも、二人の子どもたちは泣き続けます。わたしは途方にくれました。どうしたらいいのか何もわかりませんでした。そしてわたしも二人の子どもたちと一緒に、泣きました。

 どれだけ時間が経ったのかはまったく覚えていません。三人で泣きながら、しかし、ふと温かいものを感じました。何だろう、この感覚は。そう思いながら、確信しました。イエス様が一緒にいてくださっているってことを。そしてそのイエス様も、わたしたちと一緒に泣いておられました。

 「深く憐れまれた」、その言葉の意味、それは共感です。コンパッションです。人の痛みを自分の痛みとして、はらわたが引きちぎられるように抱え込む。イエス様が同じ思いを持たれたとしても、群衆の目に見える苦しさは、その次の日も何も変わらなかったでしょう。俗に言う「奇跡」はなかったかもしれません。

 しかし、「イエス様が共にいてくださる」、そして「一緒に泣いてくださる」という事実に、わたしたちは力づけられ、前に進む力を与えられるのです。妻の病気が完治しなかったとしても、涙は止まり、心には平安が与えられるのです。

 今日もわたしたちは、礼拝堂で、またご自宅で、あるいは公園でスマホを片手に、それぞれの場所でお祈りをしています。その中で、感じていきたいと思います。わたしたちのそばには、憐れんでくださる方がおられるということを。

 わたしたちの痛みをご自分の痛みとして担われ、共に苦しみ、涙を流してくださる方がおられるということを。わたしたちは喜びとし、大きな支えとして歩んでいきたいと思います。そしてこの思いを、たくさんの人たちと分かち合っていきましょう。

 わたしたち一人一人がイエス様と共に歩む働き手として用いられるよう、祈り、求めていきたいと思います。