2020年3月22日 〈大斎節第4主日〉説教

その方を信じたい
 ヨハネ9:35-38

  奈良基督教会にて
  司祭 ヨハネ 井田 泉

 今日は福音書からお話ししたいのですが、その前にどうしても触れておきたいことがあります。今日は3月22日。昨日は3月21日でした。この日は、わたしたち聖公会に属する者にとっては、決して忘れてはならない日です。
 何度かお話ししましたので、ご記憶のある方もいらっしゃるかと思いますが、聖公会の土台を築いたのはヘンリー8世ではなく、あえて一人だけを挙げるとすればカンタベリー大主教トマス・クランマーです。彼は英国における宗教改革を進め、祈祷書を編纂し、そして最後は、異端として火あぶりにされて殉教しました。それが昨日3月21日なのです。
 464年前の1556年の昨日、クランマーは公衆の面前で柱に縛られてさらしものにされました。そして自分が推し進めた宗教改革の誤りを自ら認めて、その罰として火で焼き殺される、という筋書きが決まっていました。ところが彼は自分の死がいよいよ迫ったとき、自分を焼こうとする炎の中に右手を突っ込んで、「この手が罪を犯した」と叫んで、死んでいきました。その右手とは、「これまで進めてきた宗教改革は誤りであったから撤回する」という誓約書に署名した右手です。最後の最後になって、彼は自分の信仰的良心に動かされて言葉を発した。神を信じ神の前に真実であろうとして死んでいったのです。

 ある人はこういう趣旨のことを言っています。

「英国教会(聖公会)の典礼(儀式的礼拝)は美しい。それはクランマーがただ神学者であったばかりではなく詩人でもあったからだ。」(Geoffrey R. Elton, Encyclopaedia Britannica)

 わたしは聖公会の聖餐式や葬儀は美しいと思っています。礼拝が美しいとしたら、神の美しさを反映するからです。しかしいつもそうだというのではありません。集うわたしたちの心が清められ真実なものとなって神にささげられる。それが形になったときに、神の美しい光を反映するのです。祈祷書を心もなしに棒読みすれば、美しいはずがありません。

 最後にもう一度クランマーに触れることにして、今日の福音書、生まれつき目が見えなかった人の物語に移ります。
 さてエルサレムにひとりの盲人がいて、物乞いをして暮らしていました。彼はイエスに出会い、イエスに言われたとおりにシロアムの池に行って目を洗ったところ、目が見えるようになりました。これが物語の発端です。この癒しが安息日、つまり働いてはならないと定められた日になされたということで、この人はファリサイ派の人々から尋問を受けることになりました。ファリサイ派は当時圧倒的な勢力を持ち、その標的になった者は恐ろしい目に遭うのを覚悟しなければなりませんでした。
 ところがこの人は追及されても身を守ろうとはせず、かえってイエスを擁護して「あの方は預言者です」(17節)と言い、「神のもとから来られた」(33節)と主張したので、とうとう追放されてしまいました。ただ尋問の場所から追い出されたというのではありません。会堂礼拝から追放され、言わば村八分状態にされてしまったのです。彼の両親も味方してくれません。孤独と不安の中で、どこに助けがあるでしょうか。彼が願ったのは、もう一度イエスに会いたい。あの時は肉の目では見ることができなかったイエスを、見えるようになったこの目で見たい、ということではなかったでしょうか。
 一方、イエスのほうは、もう彼のことは忘れておられたのでしょうか。

 物語の終わりのほう、35節から読んでみます。

「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、『あなたは人の子を信じるか』と言われた。彼は答えて言った。『主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。』」ヨハネ9:35-36

 ここに彼に対するイエスの思いと行動がはっきり記されています。
 まず、「イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。」イエスは彼のことを聞かれたのです。彼が自分を擁護して、それで追放されたことを知られた。イエスの胸が痛みます。なんとしても彼を見つけ出し、彼を力づけなくてはならない。
 第2に、「そして彼に出会うと」 偶然出会ったのではありません。探して見つけた!ということです。原文はそういうニュアンスです。喜びが湧き上がります。と同時に、この人をなんとしても力づけたい。生涯にわたって生きる力と喜びをこの人に得てほしいとイエスは願われます。
 それで第3に、イエスは彼に語りかけてこう尋ねられます。「あなたは人の子を信じるか」
 「人の子」とは「救い主」という意味です。

イエスは「『あなたは人の子を信じるか』と言われた。彼は答えて言った。『主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。』」

 「その方を信じたい」──これが彼の願いです。自分の生涯を託すことのできるその方を、自分の命を預けることのできるその方を信じたい。その方をはっきり知って、信じて生きるほかに、どこに生きる道があるでしょうか。
 彼は、その方がこのイエスであってほしいと願っています。きっとそうに違いないと感じています。けれどもまだ確信がない。でもその方を信じたい。

「イエスは言われた。『あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。』彼は、『主よ、信じます』と言って、ひざまずいた。」9:37-38

 きっとそうに違いない。しかしためらいがあって確信がない。それに対してイエスのほうが答えてくださいました。

「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
わたしがそれだ! わたしだ!

「主よ、信じます」

 彼は今やイエスを肉の目で見、心で確信し、そしてそれを口で告白しました。

「主よ、信じます」

 最高の幸せです。これで彼は生きていくことができます。苦難があり、迫害があったとしても、彼は究極の幸せと生きる拠り所を見出したのです。

 最初にお話ししたトマス・クランマーもまた、救い主イエス・キリストと出会った人でした。そのゆえに彼は、英国に真実の生きた礼拝を実現し、ほんとうの教会を再建しようと願いました。
 命を脅かす力の前に彼はひとたび屈服し、彼が精魂込めて続けてきた働きを一度は否定する誓約書に署名しました。しかし火の中で死のうとするそのときに、彼は「その方を、救い主を信じたい」ほんとうに信じたいと願いました。手を炎の中に差し出したとき、救い主イエスが「あなたはもうその人を見ている」と言われたのかもしれません。「わたしだそれだ!、わたしだ!」
 声にしなかったとしても、クランマーの心の叫びを、あるいは心のつぶやきをイエスは聞かれたに違いありません。「主よ、信じます。」

 「主よ、信じます」と言ってイエスの前にひざまずいた、イエスを礼拝したあの人の後ろに、その傍らに、わたしたちもいるのです。あの人の前に立って呼びかけられた救い主イエスが、わたしたちを愛しつつわたしたちの信仰を呼び覚ましてくださいます。

 主イエスさま、あなたはわたしたちの苦難と孤独のとき、わたしたちを探し、見出してくださいます。わたしたちに、あなたを信じたいという願いを増し加えてください。そしてわたしたちにご自身を示して、わたしたちに「主よ、信じます」と言わせてください。アーメン