「幸いなるかな」
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マタイによる福音書5章1~12節
顕現後第4主日を迎えました。顕現とは「はっきりと姿を現すこと。はっきりとした形で現れること」を言います。つまり神さまからの恵みが、わたしたちの元にはっきりと示される、そのような意味があります。
今から2000年前、神の独り子イエス・キリストがお生まれになるという出来事がわたしたちに与えられました。そして活動をする中で、イエス様の周りには人が集まってきました。
イエス様の周りに連れて来られたのは、立派な身なりをした人たちではありませんでした。お金持ちでもなかったようです。人々がイエス様の元に連れて来たのは、神さまの憐れみが必要な人たちでした。多分イエス様の声を聞こうとしていた人たちは、お行儀よく、きちんとした姿勢で話に耳を傾ける人ばかりではなかったでしょう。じっと座っていることができず寝ころんだまま聞いている人、苦しさにうめき声をあげてしまっている人、ボロボロの服を抱え込むようにうずくまっている人。
そのような人々に対してイエス様が語られたのが、山上の説教でした。原文通りだと「幸いなるかな」で始まるこの説教が、一体誰に対して語られたのか。ここに神さまの思いがあらわされています。神さまから遣わされたイエス様が、どのようにしてわたしたちに関わっていこうとされているのかが、ここに示されるのです。
今年になって、旧約聖書をじっくりと読む機会が与えられています。旧約聖書の中では、神さまの恵みが現れるのは、限られた人たちに対してだけでした。そしてその恵みは、長寿や子孫繁栄、また裕福になるということで、示されていると考えられていました。世間では、こんな言葉を耳にすることがあります。その言葉とは、「勝ち組」と「負け組」。たとえば年収がいくらだったら「勝ち組」ですよ、とか、身長が何センチ以下だったら「負け組」だね、とか。
念のために言っておきますが、わたしはこの「勝ち組」、「負け組」という言葉はあまり好きではなく、自分で使おうとも思いません。そもそも人を簡単に二分するのはどうかと思いますし、何を基準にそんなことを言うのかという思いを持ちます。しかし聖書を読んでいると、どうしても人が二分されているように見えるんですね。旧約聖書の中では、神さまに祝福されたとされている人や民族がいれば、そうでない人たちがいる。イエス様が活動されている福音書の中でも、明らかに二分されているんです。豊かな人と貧しい人。喜ぶ人と悲しむ人。迫害する人とされる人。
そして人々は、「勝ち組」と自分たちが考えている人たちの上にだけ、神さまの祝福、また恵みは与えられると思っていました。救い主メシアが来たとしても、「勝ち組」にしか関わることなく、「負け組」はいないものとして、相手にされることはないだろう。神さまの祝福とはそういうものなのだと、彼らは勝手に解釈していたわけです。
だからまず、イエス様は神さまの顕現、神さまの恵みがどのように、そしてどのような人に与えられていくのかということを真っ先に伝えられたのです。そしてそのときに語られたのが、山上の説教と呼ばれるものでした。
イエス様が山上の説教を語られたとき、聞いている人たちは驚きを隠せなかったことでしょう。神さまの恵みは、あなたたちには関係がないと言われ続けていた人たち。そのような人たちに対して、「幸いなるかな」とイエス様は語られたのです。
「負け組」と言われ続けてきた自分たちこそが、幸いなのだ。それが神さまの思いであり、み心なんだ。そのことをイエス様は、山上の説教の冒頭で語られました。今までの人々の認識を180度ひっくり返す、そのようなことが語られたのです。
なぜ、幸いなのでしょう。それは神さまにすがるしかない、自分の弱さに気づいているからなのです。心が貧しい、それは心の中がカラカラに乾いてしまって、どうしようもない状態を言います。自分の力でその渇きをいやそうとしても、どうしてもできない。何をしても心が満たされない。自分の力だけで生きていくことができない。そんな状態です。神さまは、そのような人にまず、手を差し伸べられるのです。頼ったらいい。泣いてもいい。倒れたら支え、進む方向が分からなくなったら手を差し伸べ、歩けなくなったら背負ってくださる。そのような神さまがいてくれる、そのことをイエス様はまず、人々に伝えられたのです。
ただ、ここで注意しなければならないことがあります。それは、イエス様は「まず」その人たちに福音を伝えられたということ。「まず」ということです。その人たちですべては終わるのではありません。このような箇所を読むと、逆にこう考える人がいます。神さまの恵みは、弱く虐げられている人にのみ与えられるのだと。そこそこ裕福であったり、幸せな人には神さまの祝福は与えられないのだと。
それは違うんですね。神さまはすべての人を救うために、イエス様を遣わされました。救われる人とそうでない人が二分化されることはないのです。今日の使徒書で読まれた、パウロが書いたコリントの信徒への手紙にはこのようにありました。
ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。
わたしたちは見栄や虚勢を張り、自分は大丈夫、自分の力だけで生きていけるといきがるかもしれません。でも神さまは、そんなことはちっとも求めておられないのです。しんどい時はしんどいと言っていい、辛かったら泣けばいい。背筋を伸ばさなくても、歩くことができなくてしゃがみ込んでも、それでいいんです。
赤ちゃんのように、お腹がすいたら泣き、オムツが濡れたら泣き、寂しくなったら泣く。それでいい。自分の弱さを知り、神さまにすべてを委ねたらいい。そのことこそが、わたしたちに与えられた大きな喜びなのだと思います。
今、つらく悲しい思いを押し殺して、無理に笑顔を作っている人がいたとしたら、今日のみ言葉はそんなあなたのために与えられたのだと思います。神さまの前で誇ることはありません。心が貧しくていい。悲しんだままでいい。神さまはそんなあなたのことを「幸いだ」と祝福してくださるのです。
この神さまの恵みが、すべての人に届けられますよう、お祈りしていきましょう。そしてどうぞ、近くに祈りを求めている人がいたら、一緒に祈ってください。神さまはあなたと一緒にいるよ、ということをどうかお伝えください。
すべての人に、神さまに祝福が与えられますように。