2022年3月6日<大斎節第1主日>説教

「誘惑するのはだれ?」

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 ルカによる福音書4章1~13節

 教会はこの前の水曜日に大斎始日を迎え、大斎節に入りました。紫の祭色の中、礼拝堂には花も飾られることがありません。わたしたちは自分の心と向き合いながら、この40日間を過ごしてまいりたいと思います。大斎節の最初の主日には、必ず「荒れ野の誘惑」と呼ばれる箇所が読まれます。洗礼を受けられたイエス様が活動を開始される前に、荒れ野で悪魔から誘惑を受けられた。そのような物語です。

 わたしたちはこのイエス様の姿から、一体何を学ぶのでしょうか。すぐに気づくのは、「イエス様に倣って生きる」ということでしょう。イエス様がなさったように、わたしたちも日々の生活を送っていく。そのことはとても大事なことだと思います。

 みなさんの手元にはすでに、紫の封筒があると思います。どこか目立つ場所にぶら下げてあるでしょうか。その封筒には、大斎克己献金と書かれています。ただし人によっては、この献金を我慢献金とか我慢貯金という場合もあるようです。例えば今年の大斎節は、何かを我慢しようと決意する。イエス様は40日間、断食されました。でもイエス様と同じように、40日間飲まず食わずというのはちょっときつい。だからせめて、何かいつも飲み食いしている物、チョコレートだったり食後のコーヒーだったり、それを我慢して使うはずだったお金を入れましょう、ということのようです。だから封筒の上の方には、貯金箱のように穴が開いています。40日間どれだけ我慢できたか、その我慢が貯まっていくから我慢貯金。でもあまりに我慢、我慢と繰り返すと、イエス様に従っていくことって、とってもつらいことのように思えてしまいます。

 以前、逝去された方のご家族とお話しする機会が与えられました。そのご家族は少し遠くに住んでいる方で、その亡くなった方が教会に来られていた時には、すでに親元を離れておられたそうです。ですから、その方の教会生活や教会で親しかった人の名前などはほとんど知らなかった。でもたまに、日曜日を挟んで奈良に遊びに来たときがあったそうです。普通だったら子どもたち家族が来たら、教会を休みそうなところです。でもその方は、日曜の朝になるといそいそと教会に出かけていったそうです。

 そして、なかなか帰ってこなかった。ご家族は、礼拝は午前中で終わるって知っていたので、おかしいなあと思っていました。でも、なかなか帰ってこられなかったそうです。お昼を食べて、たくさんお話しして、お茶を飲んで、帰ってくるのはいつも3時を回っていたそうです。そして帰ってくるなり、開口一番、「あ~楽しかった」。このお話しを聞いて、わたしはとてもうれしくなりました。こういう教会が、本当の教会なんだろうな、そんな気がします。毎日様々なことで疲れているのに、何で日曜までもっと疲れないといけないのでしょう。礼拝の最後にハレルヤと叫ぶのは、礼拝で受け取ったたくさんの喜びを持ち帰り、周りの人たちと分かち合うためです。

 イエス様は40日間、断食し、悪魔の誘惑を受けられました。わたしたちにも同じことができるのでしょうか。少しならマネをすることはできます。様々な誘惑を退けることも、ちょっとであったら大丈夫でしょう。

 でも、なかなかできないのです。40日間気を張って、様々な誘惑に打ち克ち、「今年の大斎節は頑張った」と胸を張ったとしても、復活日からそのリバウンドがこないとも限りません。みんなうつむき、疲れ果てていたなら、わたしたちの姿を見てどうして神さまの愛に気付かされるでしょうか。

 ではこの荒れ野の誘惑の出来事、これは一体何を意味するのでしょうか。イエス様は悪魔から三つのことを言われました。「この石にパンになるように命じたらどうだ」、「わたしを拝むなら、みんなあなたのものになる」、「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ」。この三つの言葉、一つ一つを噛みしめるときに、この言葉は決して悪魔だけのものではないような気がします。そうではなく、わたしたち一人ひとりの心から、何度となく放たれた。祈りの中で、嘆きの中で、どうして、どうしてですかという思いの中で、繰り返し、繰り返し放たれた言葉なのかもしれません。

 自分自身の祈りの中で、ただただ求め続けている自分に気付くことがあります。それは自分に対する願いだけではないかもしれない。でもこうしてください、こうするのが正しいのです。いつの間にかイエス様に命じている。イエス様を自分にひざまずかせ、自分が教祖になっているかのようです。これが本当のわたしたちの姿であるとするならば、わたしたちは誘惑に打ち克つどころか誘惑そのもの、悪魔を退けるどころか悪魔そのものということになってしまいます。でも残念ながら人間はみんな弱い。弱さが分かっているからこそ、わたしたちはここに集まっているのだとも言えます。

 イエス様がなさったこと、この荒れ野で誘惑を受けたことは、最初に言いましたように神さまのご計画でした。イエス様の活動の最初に、この出来事はなくてはならないものだったのです。もし誘惑の声が、わたしたち人間の心の叫びだとしたら、イエス様はその声を聞く必要があった、そういうことになるのではないでしょうか。

 イエス様はその叫び一つ一つに、聖書の言葉を用いて答えられました。「人はパンだけで生きるものではない」、「あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ」、「あなたの神である主を試してはならない」。そしてイエス様は荒れ野から人々の間に向かいます。その道は、十字架へと向かう道です。わたしたちの一つ一つの叫びを聞き、彼が向かった先は十字架です。その十字架によって、わたしたちに命を与えるそのために、荒れ野で誘惑を受けたイエス様は歩んでいかれるのです。

 この40日間も、そしていつであっても、イエス様はわたしたちの叫びを聞き、わたしたちの声に耳を傾けてくださいます。そしてわたしたちが生きる者となるために、わたしたちの罪の身代わりとして十字架に死に、復活してくださいます。

 その喜びを感じながら、毎日を過ごしていきましょう。復活日を目指し、歩んでまいりましょう。そしてわたしたち一人ひとりが、「あ~、楽しかった」と心から言える、そんな日が続いていきますよう、お祈りしております。