2024年3月3日<大斎節第3主日>説教

「ほんとうの神殿」

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 ヨハネによる福音書2章13~22節

 大斎節第三主日、わたしたちは神殿の境内で叫ぶイエス様の話に聞きました。イエス様はエルサレムの神殿の境内で、牛や羊や鳩を売っている人たちや、座って両替をしている人たちを御覧になりました。すると縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、さらにその台を倒し、鳩を売る人たちに言われたのです。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない」と。

 本当の神殿とは何か。商売することがいい、悪いというような細かいところだけではなく、イエス様が示された神殿とは何か、ご自分の体のことを神殿にたとえたのにはどんな意味があるのか、そしてわたしたちにとって本当の教会とは何なのか、そのことを今日はご一緒に考えていきたいと思います。

 さて先週の水曜日、わたしは奈良宗教者連絡会議の集まりで、岡山県にある国立療養所長島愛生園に行ってきました。その施設は、もともとハンセン病患者を収容するために作られたものです。しかしその病気に対しての誤った認識、たとえばハンセン病は感染力の高い伝染病なのだとか、これは遺伝によってかかるものだとかいう間違った知識によって、その病気に冒された人を「隔離」するという政策がとられるようになっていきます。

 さらにその誤った認識に加え、その病気になった人は末端神経を侵され、容姿が変わってしまい、差別を受けるということになっていったそうです。当日は学芸員の方、そして入所者の自治会長をされている方などから多くの話を聞くことができました。

 最初に学芸員の方が、参加者に向かって質問しました。宗教者の集まりといっても、ほとんどはお坊さんです。あとは神道の方、そして欠席されましたが天理教、キリスト教はわたしとあと1教会、全部で30名弱の参加者です。その人たちを前にして、彼はこんな質問をされました。「今入居されている方の中で、ハンセン病の患者さんはいるでしょうか?」現在長島愛生園に入所されている方は100名を切っています。ではその人たちはどういう方なのか。「回復者」という言葉は聞いたことがありますが、その学芸員の方は、こう言われました。「彼らはハンセン病の後遺症により、障害のある方々です」。

 わたしたちは「障害」と聞くと、その人の、たとえば身体などに十分機能していない部分があって、その結果、日常生活を一人で送ることが困難な状況などを思い浮かべるかもしれません。目が不自由な人が道を歩きにくかったり、足が不自由な人が自由に階段を登れなかったり、といった具合です。

 しかし、昔ある方にこんなことを教えてもらったことがあります。それは、「障害」であるのは、わたしたちの社会の方であることが多いということです。道路をどのように作るかというインフラの部分もあるでしょう。でも一番大きな「障害」は、ソフトの部分だそうです。この人とは一緒にいたくないとか、このような人たちはどこかに閉じ込めておいてほしい、自分たちのテリトリー、領域には入って来てほしくない。そのような感情は、物理的なことよりも大きな「障害」となって、人を排除していくのだそうです。今回、自治会長さんがこのように言われました。「コロナの中、人々がおこなってきたことは、ハンセン病のときに国がやってきたことと何ら変わっていなかった」と。

 1940年代、「無らい県運動」というものがおこなわれていたそうです。「らい」、つまりハンセン病の患者を自分の県からなくす、無にするというものです。県内のあらゆる場所におられる感染者を見つけ出し、隔離場所に送り込む。またその感染ルートを徹底的に調査して、自分たちの周りからそのような人たちを排除するということをしていました。その80年前の出来事と、2020年からわたしたちの間に広まった新型コロナウイルス感染症による社会の対応とが重なって見えたというのです。地域や職場で最初に感染者になることは、とても恐ろしいことでした。クラスターを出したら、ひどいバッシングを受けました。感染すると、後ろ指を指されました。感染経路はどこだ、本人はもとより、濃厚接触者と呼ばれる人を特定して、その人までも社会活動から遠ざけていったのです。その時々の判断がどうだったのか、それは今後、長い時間をかけて考え続けていかなければならないことでしょう。でもその自治会長さん、ハンセン病の後遺症により、障害のあるその方のお話を聞いたあとに今日の福音書の箇所を読んだとき、これまで感じていたのとは違うメッセージが心に届いてきたのです。

 当時、神殿の境内ではいけにえ用の動物が売られ、両替をする人が座っていました。人々は神殿に何をしに来るのか。それはお祈りをするためでした。しかしそのお祈りには、様々なものが必要だったのです。和解の献げ物や賠償の献げ物、出産をした後も、祭りの時にも、人々は動物のいけにえを献げていました。家から持って来るのは大変です。だから神殿で売っていました。また神殿で、人々は献金も献げました。しかし日常的に流通しているローマの銀貨などは、使えませんでした。ローマ皇帝の肖像が刻まれているからです。そこで両替商は、ローマの硬貨を神殿で使うことのできる硬貨に両替してあげました。こうしてみると、これらの商売は遠くから来る人たちにとっては便利なもののようにも感じられます。しかしイエス様は、激しく彼らを否定したのです。

 それは何故か。彼らは人々が神殿に入る前の、関所としての役割を果たしていました。神殿ではこのようなものがいる。神殿に入るにはこうしなければならない。そして、神殿に入れる人はこれらのものをすべて満たした人だけだ。彼らは、というよりもユダヤ教の宗教指導者は、いつの間にか神殿と人々との間に、大きな壁を作ってしまったのです。その壁のことを、「障害」と言ってもいいと思います。そこでイエス様は、叫ばれるのです。「そんな『障害』などいらないのだ」と。

 わたしたちの教会には、「障害」はないでしょうか。人々に犠牲の動物や神殿にふさわしい貨幣を求めた商人たちのように、「この教会に来るにはこういうことが必要」、「この教会にはこういう人がふさわしい」、「教会はこうあるべき」、いろいろな縛りを設けることで、人々が神さまと出会う「障害」になっていないか、見つめ直す必要があるのかもしれません。

 イエス様はご自分の体を、神殿にたとえられました。ご自分の元に来る人の前にある、すべての障害を取り除くために、イエス様は十字架にかかり、三日目に本当の神殿として復活なさいました。そして今、わたしたちのためにも十字架にかかり、本当の教会としてわたしたちと共に歩んでくださいます。すべての人がイエス様に出会えるように、わたしたち一人ひとり、イエス様に連なる本当の教会の一員として歩んで行くことができればと思います。