2021年12月5日<降臨節第2主日>説教

「ただいまと言おう!」

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 ルカによる福音書3章1~6節

 アドベントクランツのロウソクが二本灯り、降臨節第2主日、クリスマスまであと3週間を切りました。この降臨節、アドベントの季節を皆さまどうお過ごしでしょうか。12月は、日本の暦では師走と呼ばれ、一説ではお坊さんがお経をあげるために東へ西へと忙しく走り回る月というのがその語源なのだそうですが、お坊さんに限らず、だれにとっても本当にせわしなく、忙しく感じる月と言えるのでないでしょうか。わたしもクリスマスを迎える準備の期間をゆっくりと、心静かに味わいたいのに、そんなことできたためしがありません。どうしよう、時間がない、急がなきゃといろんなことに毎年追い立てられ、気が付いたら、走って走って教室に滑り込んだ瞬間にチャイムが鳴って「セーフ!」という中学生のような気持ちでクリスマスを迎えています。なんとか、これからの3週間は心穏やかに自分のことばかりにとらわれず、神さまの方を向きたいと思います。

 さて、本日の福音書は、来週降臨節第3主日も同様ですが、洗礼者ヨハネの記事が取り上げられています。洗礼者ヨハネと言えば、イエスが母マリアから生まれる6カ月前に、マリアの親戚であったザカリアとエリサベトの老夫婦から神の御業によって生まれた人です。彼の誕生については、同じルカによる福音書の1章に書かれてありますのでまたこの機会に改めて読んでみてください。ヨハネは生まれる前から、聖霊に満たされ、神さまによって大きな使命を与えられていました。その使命とは、救い主をこの世に迎えるための道を備えるというものであり、旧約聖書の時代から神さまによって計画されていた壮大なものでした。ルカによる福音書に引用されているのは、イザヤ書40章3~5節に記された預言者イザヤの言葉です。

 呼びかける声がある。主のために、荒れ野に道を備え、わたしたちの神のために、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ。主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る。

 この荒れ野で呼びかける声がヨハネです。ルカは、この出来事が神の壮大な救いの計画の中で、歴史的に実現したことであることを示すため、「皇帝ティベリウスの治世第十五年…」から始まる当時のユダヤの詳細な時代背景を記しました。人類の長い歴史の中のある一点で、神の言葉が荒れ野でヨハネに降ったのです。もうすぐ、わたしの子を救い主として遣わす。あなたは人々にそのことを伝え、準備をしなさいと。その準備とは、荒れ野に道を通し、谷は埋められ、山と丘は低くされ、曲がった道は真っすぐに、でこぼこの道は平らにというものです。自分が神であると勘違いをしているこの世の権力者、弱い者を踏みにじり、自分だけのために富を蓄える大金持ちを山や丘にたとえ、社会で差別され、虐げられ、明日食べるものさえ持たない貧しい者たちが谷にたとえられているのでしょう。救い主が現れ、この世界に神の国が実現するためには、これらの谷が埋められ、山と丘が低くされなければならないということが預言されています。そして、その時には、この地上に住むすべての人が救われ、神さまを仰ぎ見るだろうと。

 そこで、ヨハネはヨルダン川沿いの地方一帯に行って、人びとに罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えました。「罪の赦し」「悔い改め」「洗礼」という三つの教会用語がここに出てきます。どれもイエス・キリストを信じようとするわたしたち一人ひとりにかかわる大切な言葉ですが、解釈によっては非常に間違った捉え方をすることになってしまうので要注意です。

 まず、「罪」とは、いわゆる社会的な「犯罪」ではなく、わたしたちの心が神さまから離れてしまっていること、神さまの存在を忘れ去り、自分が自分の力で生きていると思い込んでいることをいいます。原語では、「的外れ」を意味します。どんな聖人であろうとも、1日24時間365日神さまのことを思い続けて生活することはできませんから、「人は皆罪びとである」というのはそういうことです。生まれ持った罪とも言えます。

 次に、「悔い改め」ですが、それも単に自分がしてしまった一つ一つの過ちを認め懺悔するということではなく、神さまに背を向けている自分の立ち位置の方向を変える、神さまの方へ向き直るということを意味します。降臨節は悔い改めの期間であり、祭色の紫がそれを表します。イエスさまのお誕生を前に、もう一度自分とこの世界をお造りになった方を思い出し、神さまに立ち帰ろうと、わたしたちは呼びかけられています。

 そして、「洗礼」です。「罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼」とさらっと聞きますと、洗礼を受けたらすべての罪は洗い流され、インスタントに真っ白な状態にされると勘違いされる方もおられるかもしれません。でも、そうではありません。洗礼とは、「もどっておいで」という神さまからの呼びかけに応えて、「はい、ただいま」と返事をすること。自分には戻る場所があるということを心から知り、確信することです。神さまはわたしたちがどんな人間であろうと、ただいまと帰ってくるわが子を咎めることなく大きな手で抱きしめ、「お帰り」と言ってくださいます。これが罪の赦しです。

 神さまからの呼びかけに応えるとき、わたしたちの生き方は次第に変えられていきます。イザヤのいう、「谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる」この言葉は、理想社会の在り方のことだけをいうのでなく、もしかしたら、わたしたちの心をも表しているのかもしれません。こんな自分はだめだ、何もできない、だれからも愛されていない、生きている意味も価値もない、そのように感じて谷間の奥底でうずくまっている時、神さまは上の方から手を伸ばし、大丈夫、わたしはあなたを愛している、そのままのあなたでいいんだよと引き上げてくださいます。同時に、何かを達成したり成功したりして、自分の力はすごいと思いあがるとき、神さまは低い、低いところにある貧しい馬小屋の飼い葉おけの中から、小さな手を伸ばし、「こっちへおいでよ。そんな高いところにいたら、ぼくのことが見えないよ」とわたしたちをかがませてくださるのです。

 クリスマスまであと三週間です。洗礼者ヨハネに言われたとおり、神さまの方に向き直り、自分の心の中の荒れ野を見渡してみましょう。岩がゴロゴロで、でこぼこで、曲がりくねった道だらけかもしれません。でも、そこに神さまは来て、いのちの花を咲かせてくださるのです。感謝をもってクリスマスまでの日々を歩んでいきましょう。父と子と聖霊の御名によって、アーメン。