「わたしの愛する子」
YouTube動画はこちらから
ルカによる福音書3章15~16、21~22節
わたしたちは人生の中で、いろいろな苦しみに遭います。新型コロナウイルスについても状況はまた過去へと振り戻されているように思います。「何度同じことが繰り返されたらいいのか」、正直、そのようにも感じます。まさに這い上がれない泥沼の中に沈み込んでしまったような感覚になります。もがけばもがくほど苦しくなる。わたしたちは感染症だけではなく、自然災害や愛する人の死、病気など、様々な困難の中で、絶えずもがきながら生きているように思います。
1月6日、教会は顕現日を迎えました。それから後の大斎節までの期間を、顕現節と呼んでいます。この顕現節は、神さまの思いがどのようにわたしたちに現されているのか、そのことを心に思い巡らせる期間です。そのスタートである第1主日に必ず読まれるのが、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けられた場面です。
イエス様が洗礼を受けられる。一見すると、わたしたちとは何ら関係のない出来事に思えるかもしれません。たとえば教会に新しい人が来て洗礼を受ける。一緒に集う仲間が増えることは喜ばしいことですが、わたしたちの信仰に直接関与するかと言えば、そうではないでしょう。
ではイエス様の洗礼は、どのようにわたしたちに関わっていくのでしょうか。そしてわたしたちは、その出来事をどのように受け止めればよいのでしょうか。
このイエス様の洗礼について、わたしは以前、疑問に思っていました。どうしてイエス様は洗礼を受けなければならなかったのだろうかと。教会問答には「洗礼によって与えられる霊の恵みは何ですか」という質問がありますが、その答えはこのようになっています。
罪を赦され清められて、神の家族のうちに生まれ、神の義に生き、キリストに満ちみちている永遠の命にあずかることです。
このことは、わたしたち人間にとってはとても大事なことです。罪を赦されたい。清められたい。神さまの家族の中に新たに生まれたい。永遠の命にあずかりたい。どのことも、「そうなれるといいなあ」と思わされることです。
しかし、イエス様にとってはどうでしょうか。イエス様は罪深かったのか。神さまの前には立てないような人だったのか。今さら神さまの家族の中に入らなくても、今さら永遠の命を得なくてもいいのではないか、そのように思ってしまうのです。
現に、今日はルカ福音書が読まれましたが、マタイ福音書にあるイエス様の洗礼の場面を見てみると、洗礼者ヨハネとのこのような会話がおさめられています。
そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼から洗礼を受けるためである。ところが、ヨハネは、それを思いとどまらせようとして言った。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか。」しかし、イエスはお答えになった。「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」そこで、ヨハネはイエスの言われるとおりにした。
つまり、洗礼者ヨハネ自身も実は、イエス様が自分から洗礼を受けるのはおかしいと思っていたんですね。思いとどまらせようとしました。逆に自分がイエス様から洗礼を受けるべきだと主張しました。でもイエス様は、洗礼者ヨハネから洗礼を受けることを選択されたのです。それは何故でしょうか。
今日の使徒書では、使徒言行録10章34節から38節が読まれました。ここに登場するのはイエス様の弟子であったペトロです。彼は異邦人、つまり外国人にも神さまのみ恵みが注がれることに気づき、こう言いました「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」。神は人を分け隔てなさらない、これがキーワードだと思います。
旧約聖書を見ると、たくさんの「作法」がでてきます。まず献げ物にはいろんな種類があります。焼き尽くす献げ物、和解の献げ物、贖罪の献げ物、賠償の献げ物などなど。
そしてこんな罪を犯したらこういう献げ物、こんな風に汚れたらこういう献げ物、こんなときにはこういう献げ物と、それぞれの「作法」が細かく決められていきます。
イエス様が来られる前、神さまってすごく遠い存在だったのでしょう。顔を見てはならない。無礼があってはいけない。罪深い人間たちが、神さまの存在を勝手に遠くしてしまったのかもしれません。そのような中で、神さまは何度も人間を自分の元に引き上げようとなさいました。正しいことをすれば、罪を犯さなければ、わたしの元に来ることができる。神さまはそのように人々を招きました。でも誰一人として、自分の力で神さまの元に行くことはできませんでした。
そこで神さまがなされたこと、それがイエス様をわたしたちの間に生まれさせるということでした。わたしたち人間を一人として滅ぼしたくない、そう考えられた結果でした。そして様々な出来事を通して、神さまがわたしたちに対してどのように関わろうとされているのか、それが明らかにされたわけです。
神さまはイエス様に、わたしたちと同じように生きる道を歩ませられました。「洗礼を授けられる」、そのことは、わたしたち一人ひとりと同じところに立つということです。わたしたちと同じように罪に苦しみ、わたしたちと同じように神さまを求めるということです。同じところに立つから、わたしたちの思いを理解し、寄り添ってくださるのです。
最初の方で、わたしたちは様々な困難の中で、いつももがきながら生きているように思いますと申しました。這い上がれない泥沼の中に沈み込んでしまったような感覚も持ちますとも言いました。イエス様は、そのわたしたちの姿を見て、泥沼の中に下りて来てくださるのです。
沼の岸に立って、ロープを投げてよこすのではない。大声を張り上げて応援するのでもない。イエス様は自ら泥沼の中に身を委ね、わたしたちの元まで来てくださる。そして顔を真っ黒に汚しながらわたしたちを抱え上げ、「大丈夫か?」とニッと笑ってくださる。
それがイエス様の洗礼の目的であり、神さまのわたしたちに対する思いであるならば、わたしたちはどんなに心強いでしょう。たとえ様々な困難があったとしても、一緒に苦しんでくれる方がいる。すごく大きなことだと思います。
「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」、天から聞こえたその声は、イエス様に向けられたものです。でも同時に、わたしたちにも向けられている、そう信じて歩んでいきたいと思います。神さまの愛をたくさんいただきながら、日々を過ごしてまいりましょう。