2024年4月7日<復活節第2主日>説教

「信じる者になるために」

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 ヨハネによる福音書20章19~31節

 福音書には、2つの物語が載せられていました。1つは弟子たちの真ん中にイエス様が来られたという話、そしてもう一つは、そのときにいなかったトマスという弟子のところにもイエス様が来られたというものです。そしてそれぞれの出来事が、いつ起こったのかも聖書には書かれています。最初の出来事の最初には、「その日、すなわち週の初めの日の夕方」と書かれています。その日とは、イエス様が復活なさった日のことです。またトマスの物語は、その日からさらに八日の後の出来事だと書かれています。ユダヤの日の数え方では、八日後とはちょうど1週間後になります。つまり最初の出来事が日曜の復活日の夕方であれば、トマスの出来事は次の日曜日の出来事だということになります。

 さて2000年前の復活日、先週読まれたマルコによる福音書によれば、三人の女性が朝早く、香料を手にイエス様が葬られたお墓に行ったものの、そこにはイエス様の遺体はなかった。そして彼女たちは「恐ろしかった」という感情を持ったとありました。

 ヨハネによる福音書には、もう少し違う物語が載せられていました。今日読まれたのは20章19節からですが、それより前、18節までにはこのような物語が書かれています。ヨハネ福音書によると、復活日の朝、お墓に行った人物として名前が残っているのは、マグダラのマリア一人になっています。

 彼女は空の墓を見て、行動を起こします。すぐに弟子たちのところに行って、ペトロと、それからイエス様が愛しておられた弟子、一般的にはヨハネと考えられていますが、その二人に声を掛けた。二人は急いで墓に行き、中が空であることを確かめた。二人の弟子はそのあと帰って行ったが、マグダラのマリアは墓の前で泣いていた。そこにイエス様が現れ、語りかけた。マグダラのマリアはイエス様に出会ったことを弟子たちに告げた。これが今日読まれた福音書の前に書かれていた出来事です。

 つまり弟子たちは誰一人として、まだ復活のイエス様に出会ってはいなかったのです。マグダラのマリアの「わたしは主に出会いました」という証言だけしか、そこにはなかったということです。その結果、弟子たちの心を、「恐れ」という感情が支配しました。聖書にはこのようにあります。「その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」。

 イエス様が復活なさったのです。十字架の上で血を流し、苦しみ、叫びながら息を引き取っていかれたイエス様。墓に葬られ、全てが終わってしまったと思っていた弟子たちの元に、マグダラのマリアを通して、喜びの知らせが舞い込むのです。「わたしは主に出会いました」という。でも彼らは、扉の鍵を開けることができませんでした。その復活という出来事を、信じることが出来なかったのです。ユダヤ人に、次は自分たちが狙われるのが怖かった。そしてもう一つ。イエス様を裏切り、見捨てた自分たちを、イエス様が顧みてくださるなんてありえないと思ったのです。

 礼拝の中で、わたしたちは「主の平和」と平和の挨拶をします。それと同じように、イエス様は弟子たちに挨拶します。「あなたがたに平和があるように」と。たとえ扉が閉められていたとしても、その真ん中にイエス様は立たれるのです。

 平和の挨拶、それは単に隣の人、周りの人たちと挨拶を交わしましょうということだけではありません。その真ん中におられるイエス様を感じ、わたしたちがイエス様に連なっていることを覚えながら、挨拶を交わすのです。ただそこで、イエス様を感じましょうと言っても、それができないこともあるでしょう。心が揺らぎ、ふさぎ込んでしまっているとき、悲しみに覆われ、暗闇の中に落とされているとき、そもそもまだ、イエス様を受け入れることができないとき。

 2000年前のようにイエス様が見える形で来られたら、それこそ誰一人として疑う人はいないと思いますが、イエス様は実はそのような信仰を求められているのではないのです。それが復活日の一週間後の物語、つまり今日に当たる日に起こった物語です。

 イエス様の弟子の中に、ディディモと呼ばれるトマスという人物がいました。彼は復活日の夕方、イエス様が弟子たちの真ん中に現われた日に、その場にいませんでした。買い物に行っていたのか、何か用事があったのか、それはわかりません。彼が仲間のところに戻ったとき、仲間の弟子たちは興奮していたことでしょう。復活のイエス様が来てくださったのです。それも目撃者はマグダラのマリア一人ではありません。トマスとイスカリオテのユダを除く10人の弟子たちが、みんなで出会ったのです。

 けれどもトマスは、簡単にそれを受け入れることが出来ませんでした。「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、わたしは決して信じない」。この言葉を聞くと、なんと頑ななと思うかもしれません。

 トマスの別名ディディモには、意味があります。それは「双子」という意味です。ところがトマスのきょうだいの存在は、聖書にも他の文献にもまったく出てきません。そのため、このように解釈することができます。「もう一人のトマスとは、わたし自身のことだ」。頑なで、いつまでもイエス様を受け入れることができず、復活の喜びに与ることができない。「このようなことを見なければ、わたしは決して信じない」、そう言い切るトマスとは、わたしであり、あなたなのです。

 しかしイエス様は、トマスに、そしてわたしたちに対し、関わることをやめようとはしません。次の日曜日、トマスの前に立ったイエス様は、再び「あなたがたに平和があるように」と手を広げ、トマスを迎え入れます。

 そして次の主日も、次の主日も、ずっとずっとイエス様は来てくださいます。堅く閉ざされた扉を何度も開け、疑いの心に語り掛け続けられます。

 その呼び掛けに、応じることができればと思います。復活物語は、2000年前にたった一度だけ起こったことではありません。今もわたしたちの間に続いている、そのような出来事です。

 そしてわたしたち一人一人が、頑なな心を捨て、疑いの気持ちから離れ、「見ないのに信じる人」とされるよう、祈り求めていきましょう。