2021年2月7日<顕現後第5主日>説教

「すべての人に伝えるために」

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マルコによる福音書1章29~39節

 わたしはたまに思うことがあります。ドラえもん、いないかなあって。ひみつ道具使わせてくれたら、あんなことも、こんなこともできるのになあって。わたしたちは神さまに何を求めているのでしょうか。イエス様に何を願っているのでしょうか。

 先日、初めてこの教会の礼拝に参加された方と、そのあとで少しお話をしました。その方は建築に興味があり、この教会にも、和風建築の珍しい礼拝堂があるということで来られました。それがたまたま日曜日の10時過ぎで、そのまま礼拝にも参加されました。そして礼拝が終わり、こんなことを言われました。「他の人のために、みんなのために祈る。こんな世界があるということを体験出来てよかったです」。

 わたしたちは礼拝の中で、代祷を大切にしています。とりなしの祈りともよばれます。わたしたちが何を祈っているのか、それはみ言葉の礼拝式文にこのように書かれています。

 「世界の教会とわたしたちの教区のため」、「世界の国々の正義と平和のため」、「わたしたちの教会と地域社会のため」、「苦しみや悲しみのうちにある人びとのため」、「世を去った人びとのため」という5つの項目が祈りのテーマなのです。ではわたしたちは何のために祈り、礼拝をささげているのでしょうか。

 今日の福音書には、いくつかの場面が出てきました。ペトロのしゅうとめをいやした場面、夕暮れに戸口に集まった人たちをいやす場面、また暗い内に祈るイエス様、そして最後にほかの町や村に行き、宣教しようとするイエス様の姿。

 その中の「イエス様の祈り」について、今日は考えていきましょう。聖書にはイエス様が祈られた場面がたびたび登場します。この祈りの前に何があったかと言いますと、最初はペトロのしゅうとめのいやしでした。ペトロとアンデレの家にイエス様が行ったときに、その家にいたペトロのしゅうとめが熱を出していた。そこでイエス様は彼女の熱を去らせました。

 そしてイエス様のうわさを聞いた人たちが、町中から集まってきます。病人をいやし、悪霊を追い出していきます。これら二つの出来事は、イエス様と物理的にかかわった人たちに対するいやしの物語です。

 病気の人が良くなる。このようないやしの物語を、わたしは正直、なかなか理解できませんでした。牧師を志願する前、わたしはある教会で感話を含む礼拝奉仕のお手伝いしていました。そのときに、このようないやしの物語を語ることに抵抗を感じていたからです。といいますのも、その教会に集まってこられるのは、施設に入っている方々だったからです。その中には車いすの方、体の自由を奪われ、思うように動けない方もおられました。その前で、「イエス様は苦しんでいる人をいやされた」と言うことができなかったのです。

 もしイエス様がドラえもんだったら、目の前に泣いている人や苦しんでいる人がいたら、「タラララッタラー」ってお腹のポケットから何か便利なもの出してくれて、みんなハッピーになるのに。そんなことを真剣に考えていました。

 今日の福音書の中で、イエス様は祈られます。イエス様はなぜ祈られたのでしょうか。それは神さまのみ心は何か、神さまはどういう思いで人々に関わろうとしているのか、自分はどうして神さまから人々の間に遣わされたのか、知るためです。

 わたしはこのときのイエス様の心の中には、大きな葛藤があったのではないかと思います。イエス様は目の前にいる人たち、ご自分が関わってきた人たちの状況を見て、願いを聞いて、彼らをいやし、起き上がらせたいと思われました。実際にそうされていきました。しかしその場にとどまりいやし続けることが、自分に求められていることなのかどうなのかを、祈りの中で確かめたいと思われたのではないか、葛藤の中で祈ったのではないかと思うのです。

 イエス様の思いを想像する。勝手な解釈です。でもそのときにイエス様がガリラヤのカファルナウムという小さな町にずっとおられたならば、次々とやって来る、自分を求める人たちだけのいやし主になっていたならば、そこですべては終わっていたかもしれません。しかし神さまのみ心はそうではなかったのです。

 イエス様は祈りの後、近くの他の町や村に行って宣教することを決断されました。弟子たちがイエス様を見つけ、みんなが探しているから帰ろうと言ったにもかかわらずです。近くの他の町や村へ行くこと、これは単純に行動範囲を広げられたというだけではありません。外に向かっていく。外への歩みを始めていくということです。

 わたしたちは今年、マルコによる福音書を読んでいきます。マルコ福音書はこのように言われることがあります。「長大な受難物語」だと。つまりマルコ福音書が語っていること、それはすべてイエス様の十字架につながっているのだということです。

 イエス様は結果的に十字架につけられたというわけではありません。神さまのみ心は最初から、イエス様の十字架に向かっていたのです。イエス様は十字架につけられるために、そして墓に葬られ、三日目に復活されるために、この世に遣わされたのです。それはなぜなのでしょうか。それはわたしたちすべての人たちに、命を与えるためです。

 わたしたちの目の前には、たくさんの苦しみがあります。痛みがあります。わたしたちはそれを、一日でも早く、一分でも早く、取り除いてほしいと願う。自分のことだけではない。となりに座っている人のため、ここにはおられない誰かのため、名前も知らない、顔も見たこともないそのような人のために、わたしたちは祈り続けています。でもなかなか、願いがかないません。祈りが足りないのか、真剣さに欠けているのか、そもそも神さまは聞いてくれないのか。悩みます。戸惑います。

 しかし神さまのみ心は、わたしたちがその日一日をハッピーに過ごす、この地上での生を何の苦労もなく、涙を流すことなく過ごしていくということではないのです。神さまのご計画は、もっと先、わたしたちが本当の命をいただき、神さまの愛に包まれて生きていく。いつの日か神さまの元で、豊かに憩う。そのためにイエス様が来られたのです。

 イエス様は宣教、神さまからの喜びの知らせを伝えるために、わたしたちの元にも来てくださいます。まもなく大斎節を迎えようとしています。イエス様の十字架への道行きを噛みしめながら、その中で生かされていることを感じていきたいと思います。