2023年4月30日<復活節第4主日>説教

「わたしは門である」

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 ヨハネによる福音書10章1~10節

 さて今日の礼拝は、見た目には分かりませんが、少しいつもと違った形でおこなわれております。出張聖餐式というものです。これは勝手につけた名前ですが、そのようなことを実験的におこなおうとしています。礼拝堂の二箇所にカメラを置き、その映像をZoomという会議システムを通じてあるご家庭とつなぐ。 それだけだったら、パソコンとスマホさえあればなんとかなりそうです。でも今回、ちっと違うのが、両方の場所に司祭がいるということです。これは牧師と副牧師二人体制でいるからできることですし、今のところ第5日曜があるときしか難しいです。でもウェブを通じてつながるだけではなく、共に聖餐の恵みにもあずかることができるということ、その喜びを礼拝堂にいる人と、画面越しに礼拝している人と、共に分かち合いたいと思うのです。

 今日の聖書の言葉、「わたしは門である」、この言葉を聞いて、みなさんは何を思い浮かべるでしょうか。多くの方が思い浮かべるのは、教会にある門ではないでしょうか。ちょうど三年前、この箇所が読まれたときには、教会は礼拝を休止していました。ですから日曜日になっても、教会の門は開けられることはありませんでした。つまり門は閉じられていたわけです。ではそのとき、イエス様とわたしたちとの関係は、遮断されてしまったのでしょうか。

 3年前、思い出してください。教会に来ることができなくなっても、わたしたちは様々な方法で神さまに連なっていたのではないでしょうか。電話やメールや手紙といった物理的な方法でのつながりもあったでしょう。でもそれ以前に、わたしたちはイエス様を中心としてつながっている、そのことをいろいろな場面で思い起こしたのではないでしょうか。そのときに、わたしたちは気づかされたと思います。目に見える教会、手で触れることができる門、それも確かに大切です。でもそれよりも、目に見えないものによって、わたしたちは生かされているのだということを、そのことをもう一度思い返したいと思います。

 今日の「出張聖餐式」、これはわたしたち一人ひとりが、たとえ教会にくることが物理的にかなわなくなったとしても、神さまの恵みはいつだって直接みなさんのところに注がれているのだということを、心に刻み込む、そんなことだと思います。

 キリスト教用語で、「サクラメント」という言葉があります。聖公会やプロテスタント教会では、洗礼と聖餐、この二つをサクラメントと定めています。サクラメントとは、神さまの見えない恵みを具体的に見える形で表すことです。今日の出張聖餐式を通して、神さまの恵みの業が見える形で示されるのです。

 さて、聖書に戻りましょう。今日の聖書箇所は、ヨハネ福音書10章1節から10節でした。実はこのあと、11節に、わたしたちがよく耳にするイエス様の言葉が書かれています。お読みしたいと思います。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。「わたしは門である」という言葉に続いて、「わたしは良い羊飼いである」と続くわけです。この「わたしは○○である」という言い方は、ヨハネ福音書によく見られるものです。

 さっと聖書をめくっていくだけで、「命のパン」、「世の光」、「復活であり命」、「まことのぶどうの木」と言った言葉が目に入ります。イエス様はこれらの言葉を用いて、ご自分がどういうお方なのかを示してこられました。しかしそれらは決して、ご自分のプロフィール紹介といったものではないのです。イエス様が伝えたかったこと、それは「あなたにとって」、わたしはどういう存在なのか、ということです。たとえば「わたしは命のパンである」という言葉は、ご自分は小麦でできているとか、フカフカしているということを伝えたいのではありません。わたしはあなたがたを生かすためにいる、ということです。あなたがたはわたしを受け入れ、そのことによって日々歩むことができるということです。それが「わたしは命のパンである」という言葉によって、イエス様が伝えたいことです。

 「わたしはまことのぶどうの木」、その言葉には続きがありました。「あなたがたはその枝である」。わたしたちは枝としてイエス様につながることによって、その実をつける。イエス様というぶどうの木から栄養をいただき、豊かな実をつけるのです。

 このように、イエス様はご自分とわたしたちとの関係性、関りについて語られています。だとすると、「わたしは羊の門である」という今日の聖書の言葉は、一体どういうことになるのでしょうか。「羊の門」というのは、羊の囲いに入る入口です。羊は弱い動物です。寝ている間も誰かに守ってもらわないと、すぐに襲われます。命を落としてしまうのです。その羊たちの命を守るのが、羊の囲いです。そこは周りを柵で囲まれ、その中では羊飼いが寝ずの番をしてくれているのです。

 つまり、「わたしは羊の門である」という言葉は、羊のように弱いわたしたちを招き入れ、守ってくださるというイエス様の宣言なのです。イエス様はこの話を、ファリサイ派の人たちの前でも話されました。当時ユダヤ教の宗教指導者たちは、人々に自分たちの囲いに入ってくるように言っていました。律法を守り、清い生活を送り、汚れた人と関わらないことを条件として、門の中に導こうとしたのです。しかしイエス様はその行為を、盗人と同じなのだと言います。つまり人間的な価値観の中で、物理的な門を用いて、人を排除していく。そのことは実は、神さまから人を引き離す行為、本当であれば「羊の囲い」に入るべき人たちを盗み、屠り、滅ぼす行為に他ならないのだというのです。

 しかし、イエス様が示された「羊の門」はそうではありません。イエス様はこのように言われます。「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる。その人は、門を出入りして牧草を見つける。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである」と。門であるイエス様と、羊であるわたしたち。その関わりによって、わたしたちは豊かに命を受けることができる。それがここで言われている門です。たとえわたしたちが物理的な教会の門をくぐることができなくなったとしても、イエス様はわたしたちを導くためにいつも招いてくださる、それが本当の門なのです。

 神さまはいろいろな手段を用いて、わたしたちに恵みを与えてくださいます。わたしたちがお手伝いできるのは、そのほんのわずかなことかもしれません。しかしわたしたちが神さまに用いられるように、これからも求めていきたいと思います。

 そして一人ひとりの名前を呼んでくださるイエス様の声を聞き、歩んでいきましょう。またこのように、様々な形で神さまの恵みを感じることができますように、祈り続けてまいりましょう。