「一途に、一心に」
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ルカによる福音書16章1~13節
この箇所の前、15章にある3つのたとえは、どれも強く心に残るものです。見失ってしまったわたしたちを捜し続ける神さまの姿が、また自分のところから出て行ってしまったわたしたちが帰ってくるのを待ち続ける神さまの姿が、イエス様のたとえ話によって示されました。これらの15章の3つのたとえは、ファリサイ派の人々や律法学者たちに対して語られました。イエス様の弟子たちは「そうだ、そのとおりだ」と思いながら聞いていたことでしょう。彼らはイエス様によって受け入れられた、たくさんの人たちを見て来たからです。
しかし続けてイエス様が語られたのが、今日のたとえでした。ある金持ちの財産を管理している管理人がいました。彼は真面目に働いていたかというと、そうではありませんでした。その金持ちの主人の財産を無駄遣いしていたと聖書にはあります。 無駄遣い、というと、ちょっと高級な肉を買ったとか、日用品もぜいたくなものを選んだとか、そういうイメージに聞こえますが、他の人に告げ口されたくらいで大慌てするのですから、かなりごまかしていたのでしょう。彼には、これがバレたら絶対にクビになるという確信があったようです。だから彼は、クビになった後のことを考え始めました。ある意味、いさぎよいです。まったく弁明もしなければ、許しを乞うこともしないのですから。
彼が取った行動。それは理解しがたいものでした。彼は主人に借金のある人たちを呼び出し、その証文、つまり借用書を書き換えさせます。この主人はお金だけではなく小麦や油も人に貸していました。証文や借用書の額や量が減るということは、借金が減るということ。しかし主人から見れば、もらえるはずの権利がなくなってしまうということ、つまり損をするということです。この管理人が主人に対して恨みを抱いていたかはともかく、これはまさに恩を仇で返す、後ろ足で砂をかける行為です。
今日の箇所の小見出しは、「不正な管理人」となっています。確かに不正です。明らかによくない行為です。彼はなぜこのようなことをやったのでしょうか。「管理の仕事をやめさせられても、自分を家に迎えてくれるような者たちを作ればいいのだ」。そう彼は思い、このようなことをしようとしました。この行為を、金持ちの主人は、「抜け目ないやり方」だと言って褒めました。新しい聖書では「抜け目ないやり方」の訳が「賢いやり方」となっています。不正に得た財産だとしても、良い目的のために用いたからいいよ、ということなのでしょうか。結果的に友達を作ろうとしたのだからよくやったね、そういうことなのでしょうか。
このたとえは様々に解釈がわかれる、とても難しい箇所です。実際この話を聞いていて、「どこに褒めるところがあるんだろうか」と思われた方も少なくないでしょう。そしてそれは、2000年前にこの話を直に聞いた人たちもそうだったと思います。このたとえ話を、イエス様は弟子たちに対して語られました。ファリサイ派と律法学者に3つのたとえを語った後、イエス様は弟子たちに対してこのたとえを語られたのです。しかしこれは、信仰のお手本を示すものではなく、とんでもない行為をする管理人の話です。この話を通じて、イエス様は弟子たちに何を伝えたかったのでしょうか。
このころすでに、イエス様のエルサレムへの道は終盤にさしかかっていました、その途中で二度の受難予告を弟子たちにしたものの、弟子たちは全くピンときていなかったようです。誰が偉いか議論したりする弟子たちをみて、自分についてくるとはどういうことか、そのことを何度もイエス様は語られていました。イエス様にはすべてが分かっていたのです。エルサレムに入るとご自分は捕らえられ、十字架につけられるということが。そしてそのときには、弟子の中に自分を裏切る者があらわれ、弟子の中に自分を知らないという者があらわれ、そしてすべての弟子たちが自分を見捨て、逃げ出してしまうということを。
調子の良いときはいいのです。「わたしは決してあなたを見捨てたりはしません」と言いながら、ニコニコとついていく。でもいったん逆風が吹くと、たちまち弱くなってしまう。すぐに逃げ出してしまうのです。一途ではないのです。どうしてもフラフラ、フラフラしてしまう。それが彼ら弟子たちの信仰だった。でもこれは、わたしたちにも大いにあてはまることだと思うのです。わたしたちも覚えがあるのではないですか。様々な困難が襲ったときに、教会から足が離れてしまうということ。ちょっとした嫌なことがあって、信仰自体を失ってしまうこと。
イエス様は語られます。たとえ話に出てくる主人は、管理人を褒めたのだと。彼は不正を働きました。そしてその不正がバレそうになると、さらに不正を重ねました。主人の財産は、減っていきました。にも関わらず、主人はこの不正な管理人を褒めたのです。 管理人は、自分の命を守るのに必死でした。全力で不正に走りました。富に執着したのです。彼は不正だろうとなんだろうと、富に執着しました。自分の命を守ることに対して一途でした。
イエス様が15章の3つのたとえをファリサイ派と律法学者に語っていたとき、ひょっとしたら弟子たちはイエス様のとなりでほくそえんでいたかもしれません。彼らがイエス様に批判されるのを聞いて、自分たちの方が優位に立っているかのような、そんな気持ちになったかもしれません。「自分たちはイエス様のそばにいて、一番救いに近いのだ」とうぬぼれていたかもしれません。しかし聖書の中では否定的に描かれるファリサイ派と律法学者ですが、彼らはとても一途でした。どうしたら神さまの前に正しく生きられるか、律法を守ることに執着し、まっすぐに生きていました。ただその方向が少し間違っていただけなのです。
弟子たちに対して、イエス様は言われるのです。あなたたちの信仰はどうなのだと。あなたたちの信仰は、裏切り、見捨て、逃げ出す、そのようなものではないかと。それならば、富に執着する管理人の方が、律法に執着するファリサイ派や律法学者の方が、よっぽどましなのではないか、そう言われているように思います。イエス様は、彼らがそうなることを分かった上で、「神と富とを天秤にかけるな。中途半端に従うんじゃない」と語られました。弟子たちは「富」には執着してなかったかもしれません。しかし「自分」に執着していたのです。そのことをイエス様は伝えられたのです。十字架の前に、イエス様はまっすぐ自分の背中を追うようにと語られたのです。
この言葉は、わたしたちにも語られています。わたしたちはどうでしょうか。中途半端な信仰にはなっていないでしょうか。わたしたちには正しい選択が求められています。ただ神さまに目を向け、歩む者となりましょう。
自分だけの力では、難しいことかもしれません。しかし十字架から三日後に復活され、弱く臆病な弟子たちを導かれたように、わたしたち一人ひとりを、イエス様は必ず導いてくださいます。