「受け身の信仰」
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ヨハネによる福音書14章1~14節
今日読まれたヨハネ福音書14章の言葉は、葬送式や逝去者記念礼拝で用いられることが多い箇所です。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか」と続いていくこの箇所は、わたしたちに希望を与えます。愛する人が天に召されるとき、わたしたちの心は震え、なにかにすがりたい、そのような思いに駆られます。その中で語られるメッセージには、わたしたちに対する神さまの揺るぎない約束が込められているのです。
この3年間、多くのわたしたちの信仰の友が神さまの元へと旅立っていかれました。コロナの影響もあり、家族葬、また場所もホールやご自宅ということも増え、参列者もごくごく親しい方や親せきに絞るということも多くなりました。
明日、5月8日から新型コロナは5類に分類され、様々な規制は徐々に解除に向かっていくことだと思います。教会でも来週からは聖歌を5曲歌います。また5月28日の聖霊降臨日には、久々のフルチャントでの礼拝となります。とはいいましても、すべてが以前のように戻るとは限りません。またすべてを戻すのが、最善のことなのかどうかもわかりません。ただわたしたちには、どんな状況であれ神さまからの豊かな約束が与えられているということを覚えておきたいと思います。
「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」、この言葉の解釈は、大変難しいものです。単純に考えると、イエス様を受け入れた者でなければ、神さまの元に行くことはできない、そう読めます。わたしたちの能動的な行動が必要だと。そこで多くの教会は、人々に洗礼を授け、教会の枝に連なるように努力してきました。そして毎週日曜日には礼拝に出席し、信仰生活を送ることを強いてきました。確かに主日に礼拝を守ることは大切なことです。
そのことが、道であるイエス様を通ることになる。そのことで、神さまから場所が与えられる。そう考えていくとき、わたしたちの心はどうでしょうか。元気なときはいいけれど、今後どうなっていくかわからない不安があるでしょう。ご自分の身近にいる人はどうなってしまうのか、そんな心配もあるでしょう。
ただそのような思いが出て来たときに、いつも思い出してほしい聖句があります。それはヨハネ福音書3章16節、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」というものです。神さまはこの世界とそれに属するわたしたち一人ひとりを愛された。その故に、イエス様をこの世にお与えになったということです。小福音書と呼ばれるこの箇所の言葉が、聖書の中に通奏低音のように流れているのです。神さまはわたしたちを裁くことを望んでおられるのではなく、愛するわたしたちが救われるのを願っておられるということを、忘れずにいたいと思うのです。先週、わたしたちは新しい礼拝の形として、出張聖餐式というものをおこないました。Zoomを用いてあるご家庭と結び、それぞれの場所に司祭がいて聖餐式をおこなう。途中音声が途切れるなどのトラブルもあったようですが、神さまの恵みはたとえ教会に来ることがかなわなくなったとしても、目に見える形で表れていることに気づかされました。
今日のヨハネ福音書14章は、イエス様の告別説教と呼ばれる箇所です。イエス様は14章から16章の3つの章にまたがって、長い、長い説教をなさいました。それはイエス様が間もなく十字架につけられるというときに、もうしばらくするとご自分のことを見ることができなくなる弟子たちに対しておこなわれました。その冒頭に語られたのが、今日の箇所です。「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」。「信じなさい」と言われると、「しっかりした信仰を能動的に待たなければ」と感じるかもしれません。でも聖書の言う「信じる」というのは、どちらかというと、「信頼」という意味に近い言葉です。つまり心を委ねる、ということでしょうか。イエス様は十字架につけられる前、弟子たちに対して言われました。心を騒がせることはないと。神さまを、そしてわたしに信頼を置きなさいと。あなたたちに場所を用意するからというイエス様の約束は、わたしたちに対しても語られています。
わたしたちは様々なことに恐れ、心を騒がせ、不安に駆られ、必死になって生きています。そのときに、わたしたちは安心を求めます。確かな約束を得たいと望みます。そして自分がいることのできる場所、命を得ることのできるところを探し続けているのではないでしょうか。その約束された場所にいるために必要なこと、それは神さまを、そしてイエス様を信じるということです。そこに信頼を置いて、歩んでいくということです。それはいったいどうすることなのでしょうか。
わたしはよく、このようなたとえを話します。たとえば水に溺れた人がいたとします。その人を助けに、誰かが水の中に飛び込んできました。ではその溺れた人は、助かるためにはどうしたらいいと思いますか。状況にもよると思いますが、一番大事なことは、「力を抜く」ということだそうです。自分の力で浮こうとせず、水を一生懸命バシャバシャせず、ただ体中の力を抜いて、水に体を委ねる。そうするとまず、人間の体は浮くそうです。そして助けが近づいて来るのを待つ。そして助けが近づいてきたとしても、体の力を一切入れることなく、ただ抱きかかえられるその腕に身を委ねる。必死で相手にしがみついてはいけません。そうすると、一緒に溺れてしまうこともあるそうです。
神さまを信じ、イエス様を信頼し、身を委ねるということ。それはまさに、水に溺れて助けを待つときに全身の力を抜く、それと同じなのです。自分の力でその状況を打開しようとしても、自分には泳ぐ力がある、波に打ち勝つことが出来る、と思い込んでもダメなのです。そうではなく、こんなに弱い自分を愛し、引き上げてくださる方がいることを信じるのです。何度溺れても、何度歩めなくなったとしても、いつも励まし導いてくださる方に、信頼を置くのです。つまり能動的ではなく、受け身の信仰が必要なのです。
イエス様は今日の箇所の最後に、こう言われました。「わたしの名によってわたしに何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう」。わたしたちが望むこと、それは何でしょうか。この世界にあるお金、地位、名誉。でもそんなものよりも、神さまが場所を用意してくださる、そしていつまでも憩うことができる、そのことが大事なのではないでしょうか。
イエス様は十字架に死に、そして復活なさって、わたしたちに場所を用意しに行くと約束してくださいました。そのことをいつも心に留め、歩んでまいりましょう。肩ひじ張ることはありません。いつも見守り、寄りそってくださるイエス様にすべてを委ねていきたいと思います。