2022年11月13日<聖霊降臨後第23主日(特定28)>説教

「神さまの約束」

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 ルカによる福音書21章5~19節

 イエス様が十字架につけられて30数年後、ユダヤの人たちにとって世の終わりを感じさせる出来事が起こりました。紀元70年に、エルサレム神殿が崩壊したのです。たくさんの命が失われました。しかしそれは、世の終わりではありませんでした。

 それから2000年、人類は様々な痛みを経験してきました。戦争などの争い、地震などの自然災害、テロや虐殺、そのたびに人々は恐れ、震えてきました。この数年間を振り返ってみても、わたしたちの周りに世界の終わりを感じさせる出来事が起こってきました。そのたびに、わたしたちは不安になります。「このままでは世界が終わってしまうのではないだろうか」と。しかし、よく考えてみましょう。「世の終わり」とは恐れることなのでしょうか。震えながら待たなければならないことでしょうか。

 わたしたちにとって、死はとても怖いものです。その理由は、大きく二つあるように思います。一つは、日常が奪われることです。今、普通だと思っていることが、死によって大きく変わってしまう。これは天に召される方にも、残された方にも起こることです。そしてもう一つですが、死の向こう側にあるものが見えない、よくわからないということで、恐れを抱いてしまうのでしょう。先週のお話しにもありましたが、死んだらどうなるということがはっきりわからないので、わたしたちは恐怖を感じてしまうのです。

 週報にもお書きしましたが、先週の木、金曜日と、リトリート旅と称してお申し込みされた方々と旅行に出かけました。旅の中で、大塚国際美術館に行きました。最初の2時間半はみさ司祭の解説付き、そして1時間は自由行動と、たっぷり3時間半、じっくりと堪能することができました。それでも見切れないほどのたくさんの作品がありました。20名弱で行ったわけですが、テーマごとに並べられたキリスト教絵画を前に、聖書のモチーフや特徴など、丁寧な解説を聞いていると、周りの知らない人たちも彼女の言葉に耳を傾けはじめ、気が付いたら大人数のグループになってしまったという面白い現象もありました。

 そして、原寸と同じサイズの絵画を前に、圧倒的な迫力に押されていく中で、恐ろしさを覚える場面もありました。たとえばミケランジェロの最後の審判。いわゆる地獄に引きずり込まれていく人々の表情や叫びが胸に突き刺さるようでした。

 なぜ礼拝堂に、絵画やステンドグラスが飾られるのか。それには理由があります。特に宗教改革以前の教会、そしてカトリック教会はその傾向が強いと思いますが、旧約聖書の物語やイエス様の降誕、活動、そして十字架や復活、昇天に至るまで、様々な絵画が書かれ、それらは礼拝堂の中に飾られていきました。それは当時、聖書を読むことができない人が多くいたからです。文字そのものを読むことが出来ない人もいました。さらに礼拝はラテン語でおこなわれ、聖書もラテン語で書かれていたために、人々は聖書を自分で読むことができなかったのです。だから礼拝堂の絵画やステンドグラスを見せながら、そこにはどのような意味があるのか伝え、たとえラテン語がわからなかったとしても、神さまやイエス様のみ業を理解することができるようにしたのです。つまり絵画を見ることで、当時どのように神さまのことが伝えられていったのかも、知ることができるというわけです。

 最後の審判の絵画は、当時の人々が死というものをどのように捉え、どう教えていたかがわかります。かたや天使に迎えられて天に上げられていく、かたや地獄に引きずり込まれていく。言うまでもありませんが、「良いおこない」をしないと地獄に行くよ、ということが強調され、教えられているんですね。その結果、まず人は罪を犯さないように気をつけて生きていきます。しかし罪を犯したらどうしたらいいんだ、という話にもなっていくでしょう。旧約聖書の中では、いけにえをささげて祈るということで罪が贖われるとされていました。しかしイエス様の十字架の犠牲によって、いけにえは必要なくなったはずです。

 でも人々は、「どうにかしてくれ」と教会に助けを求めます。だって地獄の絵を見せられたら怖いからです。その結果、免罪符とか贖宥状(しょくゆうじょう)と呼ばれるものが金銭で売買されていきます。お金で罪が償われ、地獄側から天国側に移動する。おかしな話です。でも宗教改革前、教会では当たり前のようにこのことがおこなわれていました。

 地獄が怖い。その強烈な印象を人々に植え付け、地獄に行かないために良いおこないをする。何だか宗教が、道徳の授業に使われてしまっている印象です。でもイエス様の十字架は、そういうものだったのだろうか。神さまのわたしたちに対する愛は、わたしたちを裁くためのものだったのでしょうか。

 今日の箇所の中に、イエス様のこのような約束があります。「しかし、あなたがたの髪の毛一本も決してなくならない」。これは比喩なのですが、わたしたちは自分の髪の毛の数すらわかっていません。自分の持ち物であるにもかかわらずです。しかし神さまは、その一本一本を数え、大切にするくらい、わたしたちのことを守ってくださるのです。

 最初の方で、わたしはこのように問いかけました。「世の終わり」とは恐れることなのでしょうか。震えながら待たなければならないことでしょうか。「世」というのは、人間が支配する、人間の思いで動かすことのできる、そのような世界のことだと思います。ではその反対の言葉は何でしょう。神の国、天の国、御国、そのような言葉で表すことができるのではないでしょうか。神さまの愛の中で生かされる世界。神さまの子どもであるすべての人が大切にされ、歩む世界。

 世の終わりは、決して地獄ではないのです。イエス様は天に昇られるときに、約束されました。「わたしはまた戻ってくる」と。そのことを「再臨」と呼んで、わたしたちはその日を待ち望んでいます。

 主の祈りの中でも、「御国がきますように」とわたしたちは何度も祈ります。その先にあるのは、おどろおどろしい地獄ではなく、神さまの元で憩う豊かな世界なのです。そのことを信じて、わたしたちは歩んでいくことが必要なのではないでしょうか。

 来週、教会は降臨節前主日、教会暦の一年の最後の週を迎えます。そして新しい一年、降臨節に入っていきます。その中で、光を求めていきましょう。暗闇の中に、必ず光を与えて下さる神さまの愛を信じ、イエス様を心にお迎えする準備をしていきましょう。

 「髪の毛一本も決してなくならない」と約束されたイエス様の言葉に力づけられ、日々の信仰生活を送ってまいりたいと思います。