2021年10月10日<聖霊降臨後第20主日(特定23)>説教

天に宝を積む

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マルコによる福音書10章17~27節

 新共同訳聖書には、小見出しという、小さな段落ごとにつけられたタイトルが付けられています。「イエス・キリストの系図」とか「十字架につけられる」、「復活する」など、そこにはどんなことが書かれているのか、詳しく読まなくても大体わかるようになっています。今使っている新共同訳聖書の前の聖書、口語訳聖書にはその「小見出し」はありませんでした。それどころか、段落もきちんと分けられていませんでした。

 小見出しが付けられたことによって、聖書を読むときにとても便利さを感じるようになりました。ところが忘れてはいけないことがあります。それは「小見出しはもともと聖書に書かれたものではない」ということです。今日の場面、聖書を開いてみますと、小見出しにはこのように書かれています。「金持ちの男」。もし聖書を毎日少しずつ読んでいたとして、このタイトルが目に入ってきたとしたら、わたしたちはどう感じるでしょうか。

 「中流意識」という言葉があります。政府が毎年おこなっている世論調査の中で、1970年以来、9割程度の人が自分の生活程度を「中」と答えているそうです。まあこれは国民性をあらわしているのかなあ、とも思います。もし今、みなさん一人ひとりにわたしが、「あなたは裕福ですか」と聞いたら、ほとんどの方はこう答えるでしょう。「いいえ、そんなことはありません」と。事実はともかく、謙遜に、謙遜にという気持ちがあるのか、次の大きな工事があったときに、待ってましたと言わんばかりに献金袋を持って来られたら困ると思われているのか。

 それはともかく、わたしたちの心には、「自分はそれほど金持ちではない」という思いが根底にあります。だから、小見出しを見た瞬間、困ったことが起こるのです。「この金持ちの男という話は、自分とは関係がない」と思い、この物語を自分のものとして受け入れらなくなってしまうのです。

 イエス様の前に現われた男は、たくさんの財産を持っていました。たしかにイエス様は彼のことを「金持ち」だと評していました。それは、この時代において、この地域において、「金持ち」ということと、このこととが結び付けられていたからです。それは「金持ち」イコール「神さまからの祝福」ということです。

 神さまの祝福があるから、裕福になれる。多くの財産を得ることができる。その考えが、当時の人たちにはありました。だから自分がお金持ちであることは誇らしいことだし、貧しい人たちは人の目を避けて生きていました。なぜならば彼らは神さまから祝福を与えられなかった。もっと言うと、神さまに見捨てられたと考えられていたからです。

 その考え方に照らし合わせてみると、今日の福音書に出てくる人物は、単なるお金持ちということではなくなるのです。彼は「神さまに祝福されている」、「神さまは自分と共にいてくださる」と自他ともに認める人なのだということになるのです。

 そうなると、今日の物語に出てくる人物は、わたしたちにとって、ずっと身近に感じられるのではないでしょうか。「金持ちの男」と言われると、「わたしは違う」、「そんな人間にはなりたくない」と思う人がほとんどなのでしょう。しかし、「神さまに祝福された人」、「神さまが一緒にいて支えてくれる人」と言われたら、自分はそうだ、あるいは自分もそうなりたいと思うのではないでしょうか。

 その視点で、改めて今日の聖書を読んだときに、わたしたちには大きな気づきが与えられます。イエス様の前に、神さまに祝福された人がやってきました。いや、当時の社会の中では、「神さまに祝福されたと思われていた人」と言った方がいいかもしれません。

 彼は多くの財産を得ていました。それは神さまが自分に与えたものだと、彼は考えていました。そして彼は、せっかくいただいた神さまからの祝福を手放したくないと考え、必死に十戒や律法といった掟を守って生きてきました。でもそれだけでは終わらなかった。彼はイエス様の元にやってきます。そしてイエス様にこう尋ねるのです。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と。彼はどうしてこのようなことをイエス様に尋ねたのでしょうか。イエス様にこのように答えて欲しかったのでしょうか。「大丈夫。あなたはよくやっている。永遠の命は必ずあなたの元にくる」と。あるいは不安だったのでしょうか。もっと神さまからの祝福を受けたいと感じたのでしょうか。

 実はこの場面と、わたしたちの礼拝に集う思いとは、通じているものがあるように思います。来週、わたしたち奈良基督教会では、久しぶりに聖餐式をおこないます。奈良県の感染者数が急に増えたために、しばらくみ言葉の礼拝をおこなってまいりました。本当に久しぶりです。祈祷書の聖餐式の最初のページに、このような言葉が書かれています。「聖餐は主イエス・キリストがお定めになった感謝・賛美の祭りである」と。そしてさらにこうあります。「わたしたちはこれをおこなうたびに…、主の救いのみ業を宣べ伝えるのである」。

 つまりわたしたちが礼拝に集められている目的、それはこの聖書の登場人物がしたように、「わたしには永遠の命が与えられているのでしょうか」と尋ねることでも、「永遠の命をください」と願うことでもないのです。すでに与えられているたくさんの祝福を感じ、感謝と賛美をあらわすということなのです。

 今日のイエス様の言葉は、そんなわたしたち一人ひとりに向けて語られています。「神さまからの祝福を与えられたあなたたちがなすべきことは何か」ということが語られているのです。それは「わたしは子どものときから神さまに忠実に生きてきました」と自分を肯定することではなくて、あなたの持っているものを手放せということです。あなたが頂いている祝福のしるしを、自分だけのものとして抱きかかえるのではなく、周りの人たちとも分かち合いなさいということです。

 「神さま、ありがとう」、「神さま、あなたをほめたたえます」という思いを礼拝の中で思い起こし、外に向かって遣わされたときに、たくさんの人に神さまの愛を伝えていく。わたしたちにはそのことが求められているのです。とても難しいことです。らくだが針の穴を通るよりも、ずっと、ずっと、難しいことです。ただしそれは、自分の力でそのことを成し遂げようと思った場合です。「わたしは何をすれば」、「わたしはどうすれば」、そうやって自分の力に頼っても、それはできることではありません。

 しかし、神さまの力を信じ、神さまにすべてを委ねたときに、わたしたちは生かされます。不十分かもしれない。不完全なわたしたちではありますが、神さまは大いに用いてくださる。わたしたちの手を通して、神さまの祝福がたくさんの人の元に届けられていくのです。