2021年7月11日<聖霊降臨後第7主日(特定10)>説教

「イエス様に遣わされて」

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マルコによる福音書6章7~13節

 今日の福音書の箇所は、いわゆる「弟子の派遣」というものです。イエス様が12人の弟子たちを呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わされたという箇所です。ここまで語りますと、すでに、「これは弟子の話、わたしには関係がない」となるのではないでしょうか。イエス様が弟子を遣わされたという出来事。弟子というのはイエス様の福音を伝えるために、イエス様の身近にいた人です。だから今で言うと、牧師とか伝道師とかのことだと理解する人がほとんどです。その人たちに向けて語られたメッセージなのではないか。そう思われていないでしょうか。

 実は今日の聖書の中には一言も「弟子」という言葉は出てきません。出てくるのは「12人」という言葉だけです。「12人」イコール「12弟子」のことだから「弟子の派遣」であながち間違ってはいないのですが、あえて「12人」と聖書が書いているところに、大きな意味があると思います。

 聖書には、その数自体に特別な意味がある数字がいくつも出てきます。12は旧約聖書では、イスラエルの12部族と形で出てきます。新約聖書に出てくる12弟子は、旧約の時代に神さまがイスラエル12部族を通してご自分の思いを現そうとなされたことと、大きく関係があります。イエス様は活動の最初に、漁師をはじめとする弟子たちを選ばれました。イエス様はその弟子たちを通して、神さまの思いを広げようとされました。

 イエス様が選んだ人数が、たまたま12人であったかというと、どうもそうではないようです。どうも名前よりも12人であることが重要だったようです。たとえばイスカリオテのユダがイエス様を裏切って自ら命を断った後、使徒言行録によると「12弟子」を補充するのですね。くじ引きでマティアという人が選ばれるのですが、12人であることが何よりも大事だったのです。

 それでは12という数字には、どんな意味があるのでしょうか。12時間で時計の短針は一回りします。12ヶ月で1年間が終わります。また12という数字はすべての方角、東西南北とその間、北北西や南南東などを指しています。つまり12という数字には、すべての場所や時という意味が与えられているのです。イエス様の12弟子はその時代にはたまたまその人たちの名前が記されていたかもしれないけれども、時代や地域によって、様々な人がいわゆる「12人」に加わっていったのです。

 旧約の時代から、神さまのみ心をおこなう人たちが、12という数字を背景にすべての時代、すべての場所において、福音を知らせていく。そしてこのダイナミックな神さまのご計画の中には、わたしたち一人ひとりも組み込まれているのです。そのことをまずしっかりと心に留めて、今日の福音書の記事を改めて読んでみたいと思うんですね。

 さて、聖書にはこのように書いてあります。

その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。

 宣教に行くときには、パンも、袋も、帯の中に金も持たずと、とにかく何も持っていかないように命じられています。食料に関わる物は、何も持っていくなということのようです。杖と履物はいいそうです。杖は野獣を追い払うときに用いていたそうですし、履物がないと砂の暑さに耐えられなかったそうです。

 さらにイスラエルの乾燥地帯では夜になると冷え込みがきつく、下着を二枚着て眠らないと夜の冷気から身を守れなかったそうです。下着が二枚必要ではないということは、野宿の心配はいらないということでしょうか。

 昔、聖書男という本がありました。聖書に書かれていることを文字通りに実行していくということを、実際にしてみた人の本です。かなり以前に読みましたので、この箇所をその人がどう捉えたのかは忘れましたが、多分、そのまま何も持たずにうろうろされたのではないかと思います。じゃあわたしたちも「聖書男」のように、聖書が書いているままのことをするようにということなのでしょうか。そうではないんですね。聖書が言いたいこと。それは、要は神さまにすべてをお任せしなさいということなのです。

 食べ物の心配も、宿の心配もしなくていい。神さまを信じ、神さまのお守りを信じて歩みなさい。そしてすべての人たちと、神さまの愛を分かち合うようにというのが、イエス様の思いなのです。

 12人と言ってしまうと、何かその人たちには特権が与えられているように感じてしまいます。けれども本質はそうではないのです。これはわたしたち一人ひとりに語られた物語です。すべての人に愛を届けたい。それが神さまのみ心であり、わたしたちに任せられた責任でもあるのです。

 聖餐式の最後に、わたしたちは「ハレルヤ、主と共に行きましょう。ハレルヤ、主のみ名によって」という派遣の唱和を唱え、それぞれ遣わされた場所に散らされていきます。一人ひとりが12人の一人となって、それぞれの場所で神さまの愛を伝えていくのです。難しいことではありません。なぜなら、すべてを神さまにお任せし、お委ねすればいいからです。自分の力に頼ることなどありません。力を抜き、ただ神さまのみ心のままに歩んでいけばいい。

 神さまの愛をすぐには受け入れられない人もいるでしょう。それは当然です。みなさんだって、きっと多くの人が、最初は戸惑い、悩み、一歩踏み出すことを怖がっていたと思います。何ら不思議な事ではありません。

 そんな人に出会ったら、と聖書は書きます。「足の裏の埃を払い落としなさい」と。言葉だけを読むと、訣別のしるしのようにも捉えることができます。でもここも要は、「あとは神さまに任せなさい」ということ。

 身近な人が、なかなか神さまを受け入れてくれない。教会ではこのような悩みを多く聞きます。でもすべてのことには、時があります。神さまが定められた時に、神さまは自ら声を掛け、必ず導いてくださる。だから何も心配することはないのです。

 きっとこの世界に神さまが直接介入し、有無を言わさずすべての人を従わせ、新しい神の国を作ってしまった方が手っ取り早かったでしょう。でも神さまのご意志はそうではありませんでした。イエス様をわたしたちの間に遣わされ、共に喜び、共に泣く者とされた。そしてわたしたちも、隣にいる人と喜び、誰かと共に泣く者となって欲しいと望まれました。だからこんなに不完全なわたしたちを受け入れ、愛し、そして「さあ、行け」と遣わしてくださるのです。

 たくさんの人と一緒に笑いましょう。そして多くの人と悲しみを共有しましょう。その中に、イエス様は共にいてくださいます。