「神の業」
YouTube動画はこちらから
ヨハネによる福音書9章1~13、28~38節
大斎節第4主日です。本日の特祷にはこうありました。「み子は、すべての人のまことの命のパンとなるために、天からこの世に降られました。どうかこの命のパンによってわたしたちを養い、常に主がわたしたちのうちに生き、わたしたちが主のうちに生きられるようにしてください」。先週はサマリアの女性との会話の中で、「命の水」をくださるイエス様を感じることができました。そして今日の特祷では、「命のパン」としてわたしたちを生かすイエス様を覚えます。わたしたちの肉と霊とを養ってくださる神さまの恵みを感じずにはいられません。
今日の福音書には、イエス様と生まれつき目の見えない人との出会いが描かれています。ただこの出会いですが、弟子たちのショッキングな質問からスタートしています。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。ラビというのは、先生という意味です。弟子たちがイエス様のことをそのように呼ぶことがあったようです。イエス様たちの前に、生まれつき目の見えない人がいました。彼は道端に座り、物乞いをしていたようです。その人を目の前にして、弟子たちが言った言葉。「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか」というその言葉は、その目の見えない人にはどのように聞こえたでしょうか。
彼はきっと、毎日道端に座っている中で、それこそ何度も何度も、同じような言葉を聞かされていたに違いありません。「因果応報」、「罰が当たる」、そのような言葉はわたしたちも日常の中で聞くことがありますが、その考え方は聖書の舞台である2000年前のユダヤには、今よりも強くありました。ユダヤでは病気や貧しさは、神さまの怒りの結果であると考えられていたわけです。その中でも「生まれつき目が見えない」という状況は、本当に悲惨なものでした。今の社会でも生きていくのにとても困難です。当時は、なおさらでした。
福音書のこの目の見えない人のように、物乞いをしないと生きていくことができない。一日座っていても、どれだけの人が施しを与えてくれたでしょうか。たまにはいたかもしれません。施しは律法に書かれた「良い業」だから、人の見ている前で大げさにお金を入れる人が。でもそのような人の、自分を蔑む心を、彼は日々感じていたことでしょう。
先月26日に、わたしは妻のみさと長島愛生園、邑久光明園に行ってきました。昨年10月に教会のみなさんと行った場所ですが、奈良県の宗教者連帯会議という宗教を超えた集まりの勉強会でした。わたしはこれで三度目の訪問になりますが、行くたびに前回とは違う場所を回り、新たなことに気づかされます。昨年の11月には「でんしょう愛生館」という新たな施設も完成し、そこにも行くことができました。また邑久光明園の中も回ることができました。納骨堂でお祈りをささげ、監禁室に書かれていた入所者の落書きに心を痛め、そして藪池桟橋(やぶいけさんばし)と呼ばれるいわゆる「本土」との距離が一番近い場所に実際に立ってみて、そこにある見えない壁を感じていました。
人は、様々な理由で他の人を差別します。今回特に印象的だったのは、「でんしょう愛生舘」で見ることのできたアニメです。小さな部屋に何種類かのものがあり、時間の関係で二種類しか見ることができなかったのですが、それぞれの視点で描かれていました。最初の部屋のアニメは、病気にかかって家族と別れなければならなかった子どもの視点で描かれていました。突然病院に行くように言われ、その結果が言い渡され、そして家族の元を離れなければいけない、その子です。遠く離れた療養所です。いつ帰って来られるかもわかりません。当然その子は、「行きたくない」と言い続けます。でもその子の視線の先には、悲しそうな家族の顔があります。家には近所から石を投げられ、親せきがやって来て「お前たちのせいで娘の縁談が破談になってしまった」と怒鳴られ、ついにはその子は「僕、行くよ」と言ってしまうのです。
その次に入った部屋のアニメは、家族の視点で描かれたものでした。病気にかかった子どもは、療養所に行ってしまいました。でも家族の苦しみは、ずっと続いていくのです。魚屋さんは、物を売ってくれなくなりました。今まで仲良く何でも話していた近所の人たちも、その家族の顔を見るとすぐに目を伏せ、どこかへ逃げてしまいます。「病気がうつると怖い」、「あの家族と関わってはダメだ」、そんな声の中、妹も学校でいじめられ、ついにその家族は知らない村に引っ越すことを決意するのです。
「この人が病気なのは、この人が貧しいのは、そして、この人が神さまに見捨てられているのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」。罪のために、この人はこんな悲惨な姿になっているという指摘です。しかしこの思いには、もう一つの面があるのです。
それは、自分はそうでなくてよかったという思い。自分はそうならないように罪を犯さないようにしようという思い。そして自分の罪を見えにくくするために、人の罪を強調してしまおうという、身勝手な思いがわたしたち人間にはあるのかもしれません。
「誰が罪を犯したからですか?」という弟子たちの質問に対し、イエス様は「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない」とはっきりと否定されました。そして続けて言われたのです。「神の業がこの人に現れるためである」と。
「神の業」、それは、神さまはすべての人を愛し、憐れんでくださる方だということです。神さまは決して見捨てない、人が差別し、隔離し、その家族までにも蔑みの目を向けるその人たちを、神さまは愛される。救いの手を差し伸べられるのです。
旧約の時代、苦難は神さまの怒りの象徴でした。しかしいくら苦難を与えられても、人は正しい者にはなれない。そのことを神さまは悲しまれ、愛する独り子イエス様に苦難を引き受けさせる決断を下されました。イエス様の十字架の苦難によって、わたしたちの罪が赦され、そして神さまと正しい関係に戻されるのです。
こうしてわたしたちの苦難は、ただの苦しみではなく、神さまの愛を覚える、その役割を持つように変えられました。だからこそ、復活日のその日まで、イエス様の十字架に心を向け、神さまに感謝したいと思うのです。
大斎節もあと20日余りになりました。こんなに欠けの多いわたしたち、少しの苦難にもうろたえ、神さまを忘れてしまうわたしたちを救うために、イエス様が十字架に向かわれたということを、日々覚え続けていきましょう。




