2020年7月5日<聖霊降臨後第5主日>説教

「イエス様の軛(くびき)」

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マタイによる福音書11章25~30節

 教会の門に貼ってある聖書の言葉ランキングというものがあったら、今日のみ言葉である「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という言葉は、かなり上位に入るのではないかと思います。この言葉に教会のイメージを重ね合わせているということなのでしょう。

 わたしたちが常に考えていかないといけないこと、それは教会とはどういう場所であるべきか、教会は人々をどのように受け入れていくべきなのかということだと思います。

 「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」。

 しかしこの言葉だけをとらえると、教会という場所はただただ休めるそんな場所のように思います。傷をいやし、身体を休め、何もすることなくゆたーっとまどろむ。それが教会のように感じるかもしれません。

 それはとても大事な教会の姿です。まずはすべての思い煩いを神さまにお預けして、神さまと向き合う。しかしそれだけですべてが終わるのであれば、今日のイエス様の本当の思いには、いたっていないのかもしれません。聖書のイエス様の言葉には続きがあります。「休ませてあげよう」の言葉の先があるのです。このように書かれています。

 「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしのくびきを負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。

 それではくびきを負うとか、わたしに学ぶとか、これらはいったいどのようなことなのでしょうか。

 くびきって何なのかというところから、話をしたいと思います。インターネットでくびきを調べてみますと、このように書かれていました。「くびきとは、牛、馬などの大型家畜をスキや馬車、牛車、かじ棒に繋ぐ際に用いる木製の棒状器具である」。

 昔、土曜日の夕方に大草原の小さな家というドラマがありまして、毎週楽しく見ていました。DVDも全部持っていますが、そこに出てくるインガルスという開拓者のお父さんが馬車を作って乗っており、うらやましいなあと思っていました。

 馬は二頭でつながれているのですが、その首のところを固定する木の枠のような器具を、くびきと呼びます。ところがこのくびき、ただ木を組み合わせてはめ込めばよいというものではありません。その馬に合ったちゃんとしたものでなければ、馬の呼吸を止めてしまい、力が全然出せなくなるそうです。

 また二頭をつなぐということは、その二頭同士の呼吸も大事です。お互いがお互いの存在を知り、理解し、そして歩んでいかなければ、右にそれたり左にそれたり、目的地に着くこともないし、片方の馬にばかり負担がかかってしまう。そんなこともあるでしょう。

 「わたしのくびきを負う」。ですからこの言葉をそのまま捉えるとするならば、わたしたちのそれぞれの首に木の輪っかがつけられ、グイグイ引っ張られている。そういうことになるのでしょうか。いわゆる首輪がつけられ、引きずられていく。そんなイメージになってしまうのかもしれません。

 聖公会の聖職は、首にカラーをつけています。わたしは平日にはあまりつけていませんが、お風呂以外で外しているのを見たことがない人もいます。このカラーというもの、一体何のためにつけているのかご存じでしょうか。

 諸説ありますが、一つの理由は、神さまにつながれていることをいつも自覚するということです。わたしは神さまに呼ばれ、そのみ心に沿って生きるのだと、いつも思い出すということです。

 自分が思えばいいだけではありません。日本ではそれほど分かる人は多くないのですが、欧米や韓国ではカラーをしているだけで、「ああ、あの人はそんな人なんだ」という目で見られる。警察の恰好をした人が悪い事したら目立つように、カラーをしている人も「自分は神さまを伝えるために生きているんだ」という思いをもって行動することが求められているのです。

 こんな話をすると、みなさんは「あらあら、かわいそうに。わたしは聖職者にならなくってよかった」なんて思うかもしれません。しかし疲れ、重荷を負ってイエス様のもとに来たわたしたちもまた、実はイエス様のもとで休ませてもらったあと、イエス様のくびきを負わされているのです。

 目には見えないくびきです。このカラーのように、人に気づかれるものでもありません。そして何より、イエス様に与えられるこのくびきは軽いのです。先ほど、馬に合っていないくびきは馬の呼吸をとめ、力が出せなくなってしまうのだというお話をしました。

 イエス様のくびきはそんなものではありません。わたしたち一人一人にあったもの。わたしたちが自分の力だけで生きていこうとしていたとき、とても重たくて一歩も進むことのできなかったその重荷が、イエス様のくびきにつながれた瞬間、動かせるようになる。前に進む力が与えられる。暗闇から抜け出すことができる。歩いて行けるようになるのです。

 そして、くびきには、二頭が対になってつながれます。あなたの横にはイエス様が自らつながれ、共に歩んでくださるのです。共に喜び、共に泣き、足をくじいたときには立ち止まり、オアシスの水を一緒に飲み、導いてくださるその方が、あなたの横におられるのです。

 その喜びを、一人でも多くの人に伝えるのが教会です。疲れた人、重荷を負った人がやってきて憩い、イエス様のくびき、軽くて前へと進んで行くことのできるそのくびきを、イエス様が共に担って下さる。こんなに素晴らしいことはないのではないでしょうか。

 わたしたちが心に感じるこの喜びを、共に伝えてまいりましょう。