2020年6月28日<聖霊降臨後第4主日>説教

「神さまより子どもを愛したら、ダメ??」

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エレナ古本みさ

マタイによる福音書10章34~42節

 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。」びっくりしますよね。何それ?キリスト教ってそんなのだったっけ?と。今日の主イエスの言葉は、実は、この箇所の少し前、先々週に読まれた9章35節から続いていて、イエスが弟子たちを宣教に送り出すときの激励の言葉なのです。当時、イエスはお一人で、人びとに神様を伝え、悪霊を追い出し、人びとの病を癒しておられました。でも、がんばってもがんばっても、ご自分を必要とする人の数は減りません。群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見たイエスは、深く憐れんで、「収穫は多いが、働き手は少ない」と嘆かれました。そこで、ご自分とともに宣教のはたらきを担う12人の弟子たちを選び、彼らを町や村へ派遣することを決められました。その時、イエスは弟子たちに向かって真剣に語られたのです。

 「行きなさい。お金は必要ない。かばんも、2枚の下着も、履物も、杖も持って行ってはならない。君たちの派遣は、狼の群れに羊を送り込むようなものだ。蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。わたしのためにあなたがたはすべての人に憎まれるだろう。人々を警戒しなさい。けれども彼らを恐れてはならない。彼らはあなたがたの体は殺せても魂を殺すことはできないからだ。」そしてこのすぐ後に今日の箇所が続きます。

 「わたしが来たのは地上に平和をもたらすためではなく、剣をもたらすためだ。わたしは敵対させるために来た。わたしに従うならば、自分の家族の者が敵になることを覚悟しなさい。わたしよりも自分の家族を愛する者はわたしにふさわしくない。さあ、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。」

 弟子たちに向けられたものとは言え、なんて厳しい言葉でしょう。身震いするようです。でも、それほどまでに、イエスの時代、そしてその後のキリスト教迫害の時代において、宣教するということ、そして信仰を持つということが命にかかわる厳しいことであったことが伺えます。わたしが、日本聖公会の司祭按手を受けたのは、今から5年前のことですが、もしそこで、主イエスが二千年前に弟子たちに語られた通りの説教が語られていたらどうでしょう。「あなたがたへのお給料はない。下着は1枚だけだ。靴も履かずに、伝道しなさい。あなたは狼の群れの中にいる羊のようにすべての人々から憎まれるが、恐れてはならない。体は殺されるかもしれないが魂は救われるからだ。母親があなたが牧師になることを反対するなら、あるいはあなたの息子が信仰を持たないなら、そんな家族はみんな縁を切りなさい。彼らを主イエスよりも愛してはなりません。さあ、あなたはあなたの十字架を背負って、主イエスについて行くのです!」申し訳ありません。わたしには無理ですと聖職をそそくさとあきらめたことと思います。実際そう言われて「わかりました」という人、どれくらいいるでしょうか。

 では、今日のみ言葉は、歴史的文脈の中で読まれるべきで、2020年の今に生きるわたしたちにはまったく意味をなさないのでしょうか? そうではありません。聖書の言葉はいつの時代にあっても、聞く人に福音、良い知らせ、が伝えられるのです。金太郎あめのように、聖書が読み継がれている二千年の長い歴史のどこを切っても、主イエスがその時々に読む人の前に現れてくださるのです。では、「わたしよりも父や母、息子や娘を愛する者はわたしにふさわしくない」。このイエスのひどく恐ろしい言葉をどう受け止めればよいのでしょう?

 わたしには大好きな年老いた両親と、自分の命にかえても守りたい娘と息子がおります。誰になんと言われようと彼らが一番です。牧師を辞めるか、彼らと縁を切るかという選択をもし教会によって迫られたら迷わず、牧師を辞めるというでしょう。そんなことを愛の神様が望んでおられるとは、到底思えないからです。

 そのように、聖書はその箇所だけ切り取って読んで分かろうとしたり、自分に都合の良いところだけ使おうというのではダメなのです。全体を読んで、福音というものを総合的に理解した上で、その時々にその箇所から与えられるメッセージをうけとめなければいけません。そうでないと、本来とは違う危険なメッセージになってしまうこともあるので要注意です。

 「愛する」ということについて、聖書は一貫した見解を示しています。それは、「神を愛することは人を愛することであり、人を愛することは神を愛すること」ということです。どちらか一方を他方よりも愛するということはあり得ないのです。イエスは、神を愛し、隣人を自分のように愛すること、この二つが何より大切な神の掟であると言われました。また、新約聖書のヨハネの手紙Iの4章には、次のように書かれています。「愛する者は皆、神から生まれ、神を知っています。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。」神を愛さずに人を愛する、あるいは人を愛さずに神を愛するなんてことは、本来あり得ないことなのです。真に人を愛するということは神を愛することだからです。神よりも、父や母、息子や娘を愛する愛があるとするならば、それは、愛のように見えて、真の愛ではありません。偽りの愛です。利己的な愛であり、見返りを求める愛なのです。

 わたしはよく学校の授業で「子どもは天からの授かりものでしょうか、それとも預かりものでしょうか」という話をします。ほとんどの生徒たちは、「授かりもの」という方がしっくりくると言います。それは、もちろん、子どもは親が作ったものとか、自分たちの力で勝ち得たものではなく、天からありがたく授かったものという考え方からです。そして授かりものであるならば、子どもは当然親のものという認識になります。しかし、キリスト教においては、そうじゃない。子どもは神さまからの預かりものなのです。その子が、神を愛し、人を愛する人間として自分の足で立って生きられるようになるまで、親のわたしが神さまの代わりにしっかり育てますよ、ということなのです。そう捉えたときに、親が子どもを育てるとはどういうことか、子どもを本当に愛するとはどういうことかということが必然的に分かってきます。

 わたしの両親はわたしと妹を本当に愛して育ててくれました。子どもの頃、牧師であった父親から、わたしたちが反抗して礼拝に出席しないことで叱られた記憶は一度もありません。見えないプレッシャーは感じていたように思いますが。(笑)小学校の運動会が日曜日の時は、子どもたちのために教会委員さんたちに頭を下げ、委員会の日程を変更してくれました。高校1年生でアメリカに留学したいと言い出したときには、学校の先生たちもまわりの親戚たちも猛反対する中で、両親はわたしを信じ、涙をこらえ送り出してくれました。今から30年以上も前に、15歳の娘をたった一人海の向こうへ送るなんて、どれほどの不安と恐れと寂しさを抱えたことでしょう。でも、そんな自分たちの思いを捨てて、祈りながら、きっとこれは娘にとって良いことであり、そして将来神様に喜ばれることになるだろうと信じ、行きなさいと言ってくれたのです。今、自分に同じことができるかと言われれば自信がありません。でも、自分が神様からの預かりものとして親に育てられた経験を通して、子どもを愛していると言いながら、実は自分を愛しているのでないか? この子どもに対する愛は、果たして神を愛するということにつながっているだろうか?と常に自問しながら、本当に愛する育て方をしたいと思っています。

 「わたしよりも父や母、息子や娘を愛する者はわたしにふさわしくない」。このイエス様の言葉どう思う?と中1の娘に聞いたら、「え?実際そうじゃない?ママを愛してるってことは、ママを造った神さまをもっと愛しているということになるから」と即答でした。大人が考えるより、実際は意外に単純なことなのかもしれません。

 わたしたちはほんとうによく、勘違いの愛を持ってしまいます。主イエスがわたしたちに求めておられる愛、神を愛することに結びつく愛とは、決して独りよがりの愛ではありません。見返りを求める愛ではありません。それは、主がわたしたちのためにしてくださったように、自分の身を削って自分以上に目の前にいる人を大切に思うこと、その人の心に寄り添うこと、その人のために生きること、その人を愛することで神の栄光を現わすことなのです。自分の十字架を担ってイエス様に従うとはそういうことです。

 わたしたちはみんな、愛されるために生まれてきました。それは同時に、人を愛するためでもあります。家族を愛することは、神さまを愛すること。今日、お父さん、お母さん、娘さん、息子さんに、ありがとう、大好きだよと伝えてみませんか。神様はきっときっと、自分に言われたと同じように喜ばれると思います。