2024年1月21日<顕現後第3主日>説教

「人間をとる漁師」

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 マルコによる福音書1章14~20節

 今日の箇所の最初に、このように書かれています。「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行き、神の福音を宣べ伝えて、『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」。イエス様は神さまの福音を宣べ伝えるために、ガリラヤに行きました。ガリラヤという場所は、イエス様の宣教にふさわしい所だったでしょうか。もしかするとガリラヤより、エルサレムの方が良かったのかもしれません。というのも、社会や宗教の中心地はエルサレムだったからです。わたしたちもたとえば歌手にでもなろうというときに、すぐに全国で有名になろうと思ったら、東京を選ぶと思います。奈良で地道に頑張ってもいいですが、時間がかかってしまうからです。

 イエス様も一緒でした。イエス様は30歳のときに宣教を開始します。どれくらいの時間がご自分に与えられていたのか、ご存じだったかどうかは分かりませんが、一気に神さまの福音を伝えようと思ったら、エルサレムに行った方が良かったはずです。

 しかしイエス様は、最初の宣教の地としてガリラヤを選ばれました。ガリラヤに住んでいるのは、いわゆる「庶民」でした。エルサレムのような宗教指導者や、選ばれた人たちが多く集まる大都市ではありません。片田舎です。そのガリラヤという場所で、イエス様は「悔い改めて福音を信じなさい」、つまり、神さまの方に向き直り、神さまから与えられるグッドニュース、喜びの知らせを受け入れなさい、と語っていかれるのです。

 そして続いてイエス様がなさったことは、四人の漁師を弟子とすることでした。最初に声を掛けられたのは、シモン・ペトロとその兄弟アンデレ、そして次に声を掛けられたのはゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネでした。二度同じ言葉が出てくることに気づかされます。その言葉とは、「御覧になった」というものです。イエス様が漁をしている人を見られた、その、イエス様が「見た」ということを強調しているように思います。シモン・ペトロとアンデレ、そしてヤコブとヨハネ、イエス様が見られたのは、漁をしていたこの四人でした。二人ずつ、別々にではありますが、イエス様は彼らをご覧になり、声を掛けたのです。

 四人の漁師は、漁をしていました。つまり彼らは、日常の中にいました。特別に準備をしていたわけでも、祈っている最中でもありません。いつもとまったく同じような行動をしている中に、不意にイエス様が声を掛けられたのです。この出来事は、わたしたちとイエス様との出会いに通じるものがあるのかもしれません。わたしたちも経験したことがあると思います。何気ない日常の中で、ふと神さまのぬくもりを感じることが。普段の生活の中で、イエス様の導きとお守りに気づかされることが。

 イエス様が声を掛けられたのは、どこにでもいそうな漁師でした。特別な学びをしたわけでもなさそうです。家柄が素晴らしいという感じでもなさそうです。ただイエス様は、のんびりとガリラヤ湖の周辺を歩いておられたのでしょう。そこで漁をしている人たちを見つけた。そこでイエス様は、「わたしに従いなさい」と声をかけた。それだけです。イエス様の弟子となるというのは、そういうことなのです。わたしたちが求めるよりも先にイエス様はわたしたちを見出し、わたしたちが決心する前に、イエス様はわたしたちに声を掛けてくださるのです。

 先週の場面では、フィリポとナタナエルが出てきました。ナタナエルは始め、「ナザレから何かよいものが出るだろうか」と疑っていました。ナタナエルはフィリポに、「来て、見なさい」と言われ、イエス様に会いに行きます。ところが驚くべきことに、イエス様はナタナエルに対し、「わたしはあなたがいちじくの木の下に座っているのを見た」と言われます。これはつまり、「あなたがわたしに会いに来る前から、わたしはあなたのことを知っていたんだよ」ということなのです。

 先日、「日々のみ言葉」という本を読んでいる中で、このようなみ言葉に出会いました。イザヤ書65章24節の言葉です。

 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え まだ語りかけている間に、聞き届ける。

 神さまはわたしたちの必要を知っており、わたしたちに先んじてすべてのものを整えてくださいます。イエス様をわたしたちの元に遣わし、わたしたちの必要を満たしてくださるのです。イエス様の弟子となるということは、イエス様が一方的にわたしたちをご覧になり、わたしたちを導いてくださることなのです。そして導かれたわたしたちは、それぞれの場所に遣わされてきます。わたしたちはそこで、何をすればよいのでしょう。シモン・ペトロとアンデレは言われました。「人間をとる漁師にしよう」と。人間をとる漁師、どのようなものか、想像できるでしょうか。当時、水の中というのは、死を意味する場所でした。洗礼で一度水の中をくぐるのは、キリストと共に死に、その甦りにあずかるという意味もあります。ですから魚を取る漁師は、死の中から命を引き上げるという意味もあったようです。その後、魚を食べてしまうのはどう説明できるのか、とも思いますが、そこは忘れましょう。「人間をとる漁師」という言葉を、死を意味する水の中から命を引き上げるというイメージと重ね合わせれば、わたしたちのなすべきことが少し見えてきそうです。

 深く暗い水の底を想像してみましょう。あまりの深さにまったく光は届かず、どこへ行けばよいのかもわからずに、たださまよっている。そんな状態だったとします。手や足には海藻が絡みつき、底にたまったヘドロが視界を奪っていきます。息をするのもしんどい。もうダメだと何度も目を閉じる。

 わたしたちの周りに、心がそのような状況の方はおられないでしょうか。また能登半島地震によって、そういった中から抜け出せずにいる人も、多くおられます。「人間をとる漁師にしよう」、そのイエス様の言葉はわたしたちに、そのような人たちを光の中に引き上げなさいと言われているように思います。

 どうすればそのような方々を、すくい上げることができるのでしょうか。それはイエス様がなさったことを見ればわかります。その人たちの、そばにいることです。そのような方々の傍らに立ち、一緒に歩むことです。

 そのために、わたしたちはイエス様に見い出され、招かれました。わたしたち一人ひとりが今、神さまを、イエス様を必要としている人のそばにいる。物理的な距離だけではありません。祈りを通してそばにいる。そのことがとても大事なことです。

 イエス様は、わたしたち一人ひとりを弟子として、用いてくださいます。弟子といいましても、能力があるわけでも、すばらしい力があるわけでもない。ただ、一緒に歩む、心を同じくして、共に歩いて行く、それがイエス様の弟子なのです。

 つらく悲しいことが多いこの世の中だからこそ、わたしたちはイエス様に倣い、歩んでいきましょう。