「神さまの平和」
YouTube動画はこちらから
ルカによる福音書9章28~36節
今日の福音書に耳を傾けて行きたいと思います。イエス様は3人の弟子を連れて、山に登られました。今日の箇所の最初に、「この話をしてから八日ほどたったとき」とあります。この話とは何か、それはルカ福音書の9章21節から27節に出てきます。イエス様は弟子たちを集め、このように言われました。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」。つまりご自分が受難されて殺される、そのことを伝えられたのです。
弟子たちは何のために、イエス様に従ってきたのでしょうか。自分がお金持ちになりたいから。名誉を得たいから。そういうことでしょうか。それよりも彼らは、自分たちが平和な生活を送ることを望んでいたのではないでしょうか。ただし平和な生活と言っても、その捉え方はさまざまあります。当時ユダヤの人たちは、ローマの支配下にありました。だからある人にとって平和とは、ローマが滅ぼされることだったのかもしれません。また多くのユダヤ人にとって平和とは、神さまとよい関係を持つことでした。だから汚れた人、罪人や徴税人や娼婦といった人たちと交わることを避けてきました。その人たちにとっての平和は、自分たちだけに恵みが与えられ、安らかに生きることでした。
しかしイエス様が予告なさったご自分が十字架につけられるということは、彼らにとって受け入れがたいことでした。イエス様がいなくなってしまったら、平和も何もあったものではない。また一緒に歩んでいる自分たちにも、迫害の手が伸びるのではないか。そう思っていたことでしょう。
そんな状況の中で、今日の福音書の箇所を迎えます。イエス様は山に祈るために登られます。その際に、三人の弟子、ペトロとヤコブとヨハネという三人の弟子に声を掛け、一緒に来るように命じます。この三人の弟子は、最初にイエス様に声を掛けられた漁師たちでした。ペトロの兄弟アンデレはいませんが、イエス様はこの三人を、特に重要な場面に連れて行ったようです。ヤイロの娘を生き返らせたときもそうでした。またゲツセマネの園でお祈りをされたときも、この三人を連れて行き、一緒に祈るように願われました。この三人の弟子たちは、他の弟子たちのまとめ役でもあったでしょう。特にイエス様が受難予告をされた後です。八日間の間に、様々な不安を聞いていたかもしれません。その中で自分たちだけに声がかかった。これは何を意味するのか、彼らは考えたに違いありません。
さてイエス様は、山で祈り始められました。するとイエス様の顔の様子が変わり、服も真っ白に輝いたそうです。さらに旧約の預言者であるモーセとエリヤがイエス様と語り合っていたということ。その光景を見せられた彼らは、大変興奮したのではないでしょうか。彼らにとって、そこは「神の国」だったのではないでしょうか。争いがなく、神さまの栄光に包まれた世界。真っ白い光がすべてを覆い、すべての汚れから解放される素晴らしい世界。わたしたちがもし、「平和な世界」の絵を描くとしたら、どうでしょうか。花が咲き、明るい光の中、人も動物も憩う。地上のドロドロとしたものとは一線を画すような、そんな静かな空間を、わたしたちは「平和」と呼ぶのではないでしょうか。
3人の弟子たちは、あっけに取られていました。でもイエス様とモーセとエリヤの姿に、希望を感じたのです。ここにいれば、イエス様と一緒にこの場に留まれば、そこに平和が生まれる。そう感じてもおかしくはありませんでした。
「先生、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。唐突にも思えるこのペトロの言葉ですが、ペトロはこのままでいたかったということなのでしょう。
仮小屋というと、何だか仮住まい、プレハブやらテントといったものを思い浮かべますが、新しい聖書では「幕屋」となっています。しっかりした建物です。つまりここにい続けるための住居を建てたいということなのです。このペトロの思い、よく分かります。イエス様は自分たち3人だけを連れて、山に登られました。そこで見せられた光景は、自分たちが望んでいた「平和な世界」に近かったわけです。だからずっと、山の上にいたかった。もうふもとには、降りたくなかった。そしてイエス様には、十字架へ向かってほしくなかった。
地上には目を背けたくなる、さまざまな出来事があります。78年前の原爆、戦争ですべてが終わったわけではありません。たくさんの血が流され続け、たくさんの命が奪われ続け、そして多くの人たちが今、この瞬間も涙を流し続けておられます。
イエス様は2000年前、山の上でその姿を変えられました。しかしそれは、山の上に神の国を作るということではなく、山を降りて、十字架に向かい、そして苦しむ一人一人と苦しみ続けるという、大きな決断をされたということです。
先週の木曜日、神戸教区の関係教役者逝去記念聖餐式に出席しました。昨年の8月30日に天に召された父の記念式です。式の中で唱えられた特別叙唱の中に、このような言葉がありました。
わたしたちは死の定めを嘆くことがあっても、永遠の命の約束によって慰めを受けます。それは信ずるものの命は奪われるのではなく、変えられるからです。この世の幕屋は朽ちても、主は永遠の住みかを備えてくださいます。
イエス様は、わたしたちが死と罪の鎖から抜けることのできない状況から、十字架の血によって解放してくださいました。そしてただ滅びるしかなかったわたしたちの命を、生かしてくださったのです。そのために、イエス様は山を降りました。山の上に幕屋を建てるのではなく、永遠の住みかを備え、与えるために、わたしたちの間に来られました。
それこそが、神の平和であるということを、イエス様は身をもって示されたのです。ドロドロで、ぐちゃぐちゃで、ちっとも真っ白ではない世界でわたしたちは生きています。しかしそこにこそ、イエス様は来てくださるのです。そこにこそ、本当の神の平和は生まれるのです。
そのことを信じ、喜びをもって歩んでいきたいと思います。そして一日でも早く、争いがなくなり、人がとなりの人の命を大切にする、そのような日常がくることを、祈り求めてまいりましょう。
主の平和が皆さんと共にありますように。