2020年5月3日<復活節第4主日>説教

「 命を受ける、豊かに受ける」

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ヨハネによる福音書10章1~10節

 今日はイエス様の「わたしは羊の門である」という言葉に聞いていきたいと思います。といいましても、わたしたちは「羊の門」を簡単にイメージすることはできないでしょう。

 2000年前のユダヤであれば、イエス様が「わたしは羊の門である」と言われたときに、多くの人が「ああ、あれのことか」とうなずき、イメージしながらその次の言葉を待っていたことでしょう。でも残念ながら、わたしたちの周りにはそのような光景はありません。ですから今日はまず、羊やその門について、少しお話をしたいと思います。

 羊という動物は、聖書の中にたびたび出てきます。イエス様のたとえには100匹の羊の中うちたった1匹がいなくなったとしても、それを探すというお話が出てきます。また「主はわたしの羊飼い」から始まる詩編23編が大好きだという方もおられるでしょう。

 羊は、とても弱い動物だそうです。羊というと仲間同士くっつきあい、いつも固まって行動しているイメージがありますが、それは目が悪く、前にいる羊のお尻の匂いを嗅ぎながら移動するからだそうです。また食べ物がある場所、水が飲める場所にも自分でたどり着くことができず、誰かに連れて行ってもらわないといけない。そして強盗やオオカミなどに襲われることも多いのです。さらに、転んでしまうと一人では立ち上がれないとも言われます。だから羊たちには、羊飼いが必要でした。羊たちを正しく導いてくれる存在、それが羊飼いだったのです。ですから、「わたしは羊の門である」というイエス様の言葉には、羊たちが安心して休めるような場所にイエス様は導いてくれるのだという意味があるのです。

 だからわたしたちも羊のように、イエス様に導かれ、守られたいと感じます。イエス様という羊の門を通ることで、わたしたちは命を豊かに受けることができるからです。それではその羊の門というのは、いったいどこなのでしょうか。

 わたしはこれまで、この羊の門と教会とを、同じようなものだと受け止めてきました。教会こそが命を豊かに受けることのできる門である。それはある意味、正しいことかもしれません。しかし教会が礼拝を休止し、人が集まることができなくなった今、その意味を問い直す必要があると思います。

 このような形で礼拝を守り始めて、すでに三週目になりました。政府が全国に緊急事態宣言を出して、先々週、先週、そして今週と礼拝を休止し、ネットや紙ベースで説教をお届けしています。ネット礼拝の時には、わたしは妻しかいない礼拝堂で、カメラに向かって語ります。

 正直言いまして、わたしはこのような形で説教をすることについては、否定的な考えをもっていました。説教というのは、説教台から語られる言葉が聖霊の働きによって聴衆に届けられる。だからこのような録画や文書化した説教というのはどうなのだろうか。それともう一つ、どうせやるなら、ダイエットに成功してからにしてほしい。それは冗談としましても、先々週の説教、本当に手探りの中で、前が見えない中で、だれも聞いていないかもしれない中で、どう語ってよいのかわかりませんでした。でもネットに公開された映像を見られた方から、たくさんの喜びの声をいただきまして、そこからわたし自身の考え方もゴロっと変えられたように思います。わたしはこれまで、説教というのは生モノで、その場で聞かなければ意味がない、聖霊の働きも得ることができないのではないかという考えを持っていました。しかし、いろんな方の感想を聞くときに、たとえそれがライブでなかったとしても、それぞれの方のところに、まさに聖霊が働いている、そのことを確信することができたのです。

 いつもは当たり前に思っていた、日曜日になったら礼拝に出席し、陪餐をいただき、食事などの交わりを終えて帰宅する。その当たり前のことが当たり前でなくなったときに、わたしたちはうろたえます。恐れます。

 しかし、神さまはわたしたちに示されるのです。それでも神さまはわたしたちの間に働かれているということを。決して見捨てられてはいないということを。それどころか、わたしたちに大きな気づきを与えてくださるのではないでしょうか。わたしはどこかで勘違いをしていたのかもしれません。わたしたちは自分の力で頑張って、羊の門に向かわないといけないと。それは教会であり、礼拝であり、そのために清く正しい生活を心がけようとしてきました。そして思うのです。羊の門に入りたかったら、あなたもこっちに来ればいいと。何も考えずに言ってしまうのです。あなたもわたしと同じようにしたらいい。そしたらきっと、豊かな命を受けることができるからと。

 すごく傲慢な姿です。一体自分を何者だと思っているのだろう、そう思います。でもそれが今まで当たり前のように取っていた、わたしたちの姿勢だったのです。しかしこうして一緒に集うことができなくなり、画面や文字が語る言葉に必死で耳を傾ける時に気づかされるのです。わたしたちは今まで、一緒に集うことができなかった人たちをどれだけ切り捨ててきたのだろうかと。

 こんな声を聞きました。今まで礼拝には参加していなかった家族も一緒になって聞いていた。また配信が始まる前から画面の前に座って待っていた人もいます。またある人は、これからもこういう形のものがあると、たとえ礼拝に行くことができなかったとしてもいいと思うと言われました。その言葉を聞いたときに、わたしは思いました。羊の門、それはわたしたちが努力して行く場所のことではない。わたしたちが心を込めて祈るとき、み言葉に耳を傾けるとき、神さまに思いをぶつけるとき、そこにはまぎれもなく羊の門、イエス様が来てくださるのです。

 この門を、わたしを通って行きなさい。わたしがあなたと共にいて、守ってあげよう。いつもそばにいるから、一緒に歩んでいこう。その声は、教会の中だけに聞こえるのではありません。今、どこにいようとも、すべての人に必ず聞こえる言葉なのです。

 新型コロナウイルスの影響により、わたしたちは様々なことを自粛しています。我慢しています。でも、それだけでしょうか。わたしはこのことを通して、たくさんのことに気づかされました。多くの人たちと共に祈っていることも実感できました。  そのことを喜びたいと思います。感謝したいと思います。教会にみんなで集まることが出来る日は、まだ少し先かもしれません。でも安心してください。大丈夫です。イエス様は祈るわたしたちの傍らに、いつもいてくださいます。