2023年6月11日<聖霊降臨後第2主日(特定5)>説教

「誰と共に?」

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 マタイによる福音書9章9~13節

 今年はA年として、マタイによる福音書を中心に読んでおります。このマタイによる福音書は、ざっくりと言いますと、ユダヤの人たちに向けて書かれたと考えられています。旧約聖書を読むと、彼らには約束の地が与えられ、また選民、選ばれた民として自分たちは神さまの前に立っていると書かれています。そしてそれこそが、彼らユダヤの人々のアイデンティティでした。

 そんな彼らに、神さまはどのように関わっておられるのか、そのことを伝えることも、とても大事なことでした。たとえばマタイ福音書には「成就した」という言葉が多く使われます。旧約聖書の預言がイエス様によって、成し遂げられたという意味です。

 つまりイエス様は、旧約聖書から続いている約束を完成させるために来られたのだということです。そして同時に、このようなことが語られるのです。それは、あなたがたが今まで正しいと思っていたことは、実は違うんだ。そのようなことです。

 今日の福音書に登場する人物は、マタイという徴税人です。彼が収税所に座っていると、イエス様が近づいて来て彼に声を掛けます。「わたしに従いなさい」と。その言葉を聞いて、彼は立ち上がり、イエス様に従ったということです。

 さて、この物語を読んだユダヤの人たちは、どのような思いを持ったでしょうか。漁師が弟子となる物語を受け入れることは、それほど難しいことではなかったと思います。

 しかし徴税人に声を掛け、その人を弟子にするということは、ユダヤの人たちにとってはあってはならないことでした。考えられないことだったのです。それは、徴税人は罪人と並んで、関わりたくもない、差別された存在だったからなのです。

 罪人や徴税人、聖書にはよくこの言い回しがでてきます。あるいはそこに、異邦人や娼婦が加わることもあります。罪人や徴税人、聖書がそのように語るとき、多くの場合それは、神さまから遠く離れた存在を意味しています。罪人とは、神さまからいただいた掟を守っていない人。また守ることの出来ない人も含まれるでしょう。殺人や盗みはもちろんのこと、安息日に働いてしまったり、汚れた物に触れてしまったり、それらもすべて罪と定められていました。

 それでは、徴税人はどういう人だったのでしょうか。当時、ユダヤを治めていたのは、ローマ帝国でした。そしてローマは、ユダヤの人々から重い税金を取り立てました。その手先となって働いたのが、徴税人だったのです。彼らはユダヤ人でありながら、ローマのために働いていました。ユダヤの人たちから見たら、裏切り者です。さらに徴税人はローマに支払う額以上に取り立てることもザラでした。たとえばローマから、「あの人から1000円取り立てて来い」と指示されたとします。正直に1000円だけ取り立てたら、ローマに支払ったらそれで終わりです。しかしその徴税人がもし2000円取り立てたとしたら、差額の1000円は自分のものになります。5000円取り立てたなら、4000円が自分のもの。10000円だったら、9000円が自分のものとなるわけなのです。人々は、徴税人がそのようにして私腹を肥やしているのを良く知っていました。しかし彼ら徴税人の背後には、ローマ帝国の存在があります。そのため人々は不平不満を言いながらも、徴税人の言うなりになるしかなかったのです。

 だからユダヤの人たちは、思っていました。「徴税人は罪人と同じだ。彼らのことを、神さまは決して許さないだろう。自分たちも、彼らとは関わるまい」。罪人や徴税人、そのような人たちを嫌い、自分たちの周りから追いやることが、正しいことだと思っていました。自分たちの清さを保つために、必要なことだと考えていました。

 だからまず、イエス様が収税所に座るマタイに声を掛けたことが、ユダヤの人たちにとってはありえないことでした。そしてさらに輪を掛けて、ありえないことをイエス様はなさいます。それはその家、つまりマタイの家でイエス様が食事をされたということ、そしてそこに、徴税人や罪人も同席していたということです。「汚れた人」の象徴的存在である罪人や徴税人。それらの人たちと食事をすることは、自らも「汚れる」ことを意味していました。特にイエス様のように「教師」と呼ばれるような人は、自らをいつも清い状態にしておく必要がありました。つまり彼らと関わってはいけなかったのです。

 再来週の日曜日、この教会でエキュメニカルバーベキューというイベントをします。私たち夫婦が前任地にいたときに始めたものですが、コロナのために奈良でおこなうのは初めてです。いろんな教派・教会の人たちに声を掛け、一緒に礼拝をし、賛美をし、そして食卓を囲みましょうという企画です。

 桃山にいたときには、カトリック、正教会、教団、福音派、単立教会、いろんなところから、牧師先生や信徒の方々が来られました。教会でお酒が振る舞われることに、ビックリする方もおられました。でも一緒に食べ、語る中で、その真ん中にイエス様がおられることを感じる、良い時間が与えられていきました。

 ただ少し残念だったのは、自分のところの教会の信徒さんの参加が少なかったことです。時間的なこと、体力的なこと、さまざまな要因もあると思いますが、自分たちと考え方や思いが違う人たちと交わることは、正直勇気のいることです。

 ある教会でこんな話を聞いたことがあります。新しい人をどうやって受け入れるかという話になったときに、一人の信徒さんが言われたそうです。「わたしはこのままでいいわ。新しい人来たら、何かと面倒くさいから」。確かによく知った顔ばかりで教会に連なり、礼拝をささげるのは、お互い気を使う必要もなく、楽でしょう。でもそれは、イエス様が言う「いけにえをささげるだけの儀式」と何ら変わらないような気がします。

 そうではなく、自分たちとは違う人たちを受け入れ、招き入れる。そこには罪人もいるかもしれない。でもわたしたち一人一人だって神さまからが見たら罪人なのですから、そんなにたいしたことではないのです。

 イエス様は積極的に、その交わりの中に入っていかれました。それは、そこに愛が必要だから。神さまの憐れみを求めている人がいるからなのです。

 わたしたちの教会という交わりも、そうでありたいと思います。「わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない」というイエス様の言葉に聞き、多くの人と共に交わる教会となりますよう、歩んでまいりましょう。

 そして今、神さまの愛を求めている人たちにわたしたちが関わり、共に食卓を囲むことができれば、こんなに素晴らしいことはありません。それこそが、わたしたちの求める宣教の形なのではないでしょうか。