2022年1月16日<顕現後第2主日>説教

「最初のしるし」

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 ヨハネによる福音書2章1~11節

 今日の聖書箇所は、「カナの婚礼」と呼ばれるところです。非常に心に残る物語です。ガリラヤのカナという町で、婚礼、つまり結婚式がおこなわれます。そこにはイエス様の母であるマリアさんがいました。そこに、イエス様と弟子たちが招かれます。ところがどれくらいの人が来ていたのかはわかりませんが、用意していたぶどう酒が足りなくなってしまいます。そこでマリアさんはイエス様に「何とかしてほしい」と頼みます。

 最初イエス様は、マリアさんの頼みを冷たく、これはひどすぎるでしょうというくらいとても冷たくはねつけますが、結果としては石の水がめ6つに入れた水を、とてもおいしいぶどう酒に変えられた、そしてそこにいた人たちはみんな満足した。そして最後に、このような言葉で締めくくられています。「イエスは、この最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。それで、弟子たちはイエスを信じた」。栄光が現された。つまり顕現です。

 でも正直どうでしょうか。これが神さまの栄光、神さまの思いと言われてもピンとこない方が多いのではないでしょうか。今回の物語では、新郎も、新婦も、婚礼客も、別にイエス様を求めてはいませんでした。それどころかこの奇跡がおこなわれたのを知っていたのは召し使いだけ。弟子たちも見ていたでしょうが、おおっぴらではなく、こっそりおこなわれたのです。

 ですからぶどう酒を飲んだ人たちは、一体何が起こったのかまったく知りませんでした。それどころか、ぶどう酒がなくなるかもしれないというピンチも、ほとんど気づかれなかったでしょう。それが最初のしるしだと言われても、となるのです。

 昨年12月26日、当教会では二人の方の洗礼堅信式がおこなわれました。当日は高地主教の司式のもとで、聖餐式をおこないました。つまりみんなで聖卓を囲みました。その日、ある方の逝去者記念式をおこないましたが、その中でその人の堅信式の日に教会の聖卓が聖別されたというお話をしました。また先週月曜日にお葬式をおこないましたが、その人も記念式をおこなった方と同じ日に堅信を受けており、そのときにも教会の聖卓のお話をしました。今日、わたしたちはみ言葉の礼拝をおこなっておりますが、聖餐式のときには礼拝の中心は聖卓、つまりみんなで食卓を囲むということがとても重要なことになります。

 聖餐式は、神の国の祝宴の先取りと言われることがあります。わたしたちは皆、いずれ天に召されます。そのときに、神さまの身許に憩う中で、神の国の食卓にあずかる。それがわたしたちの希望でもあるのです。その食卓の中に、最初のしるしがあらわされました。つまりこの食卓がイエス様の登場によって、それまでのものとは全く違う形に変えられたのです。そしてそれは、わたしたちにも大いに関係するしるしとなったのです。

 今日の福音書に出てくるものの中で、少しイメージしにくい物があります。2章6節にこのように書かれています。「そこには、ユダヤ人が清めに用いる石の水がめが六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのものである」。石の水がめが6つある。それぞれ2ないし3メトレテス入りである。そうあります。メトレテスという単位は、30~40リットルだそうです。ということは、2ないし3メトレテスですから、60リットルから120リットルの間です。間を取って、90リットルとして考えてみましょう。よくゴミを集めて入れておくポリバケツがあります。その90リットル入りがどれくらいの大きさなのか調べてみました。直径が55.6㎝、高さは59.7㎝、子どもが十分隠れることができるサイズです。

 1個でもまあまあ大きい、そのサイズの石の水がめが6つ並べてあったのです。そしてそれが、何のために用いられていたのかも、あわせて書かれていました。「ユダヤ人が清めに用いる」、そのようにあります。

 聖書の他の箇所で、イエス様がファリサイ派や律法学者にこう咎められたことがありました。「あなたの弟子たちは、食事の前に手を洗わない」と。これは別に、不衛生だからという意味ではありません。ユダヤの人々は食事の前には念入りに手を洗っていました。それは手に何かけがれた物がついていたら大変だからです。市場に行くと、たくさんの人たちとすれ違います。そこには悪いことをした人、安息日などの律法を守らなかった人、いわゆる「罪人」と呼ばれる人たちがいるかもしれません。その人たちに触れてしまったら、自分もけがれてしまう。

 だから彼らは手だけでなく、体もきれいにしてから食卓へと向かいました。そのために大きな水がめが必要だったのです。たくさんの水を使って、念には念を入れて、身を清めてから食卓に着く。それが彼らの習慣でした。そうしないと食卓につけないと考えていました。

 しかし、体の外は洗い流せたとしても、内部はどうでしょう。罪人や徴税人、娼婦と呼ばれる人たちは、いくら水で清めようと思っても、無理だと考えられていました。そこでどうしたか。彼らは食卓の交わりから排除されていったのです。「清め」というハードルを越えられなければ、交わりには加えてもらえなかったのです。

 わたしたちは知っています。自分たちもまた、水で表面を洗い流したぐらいで、清くはなれないことを。神さまの目から見たら、罪人であることを。神の国の食卓には、入ることの許されないそんな一人ひとりなのだということを。わたしたちの力では、そこにある壁を越えることはできません。

 イエス様は、最初のしるしとして、その壁を取り除かれました。水がぶどう酒に変わった、それは単に物質が変わったことを意味するのではありません。「清めの水」という、人を区別し、排除していったそのものを変えられた。ぶどう酒というすべての人を迎え入れ、喜びで満たすものに変えられた。そういうことなのです。イエス様の最初のしるしによって、わたしたちもまた食卓にあずかることができる者に変えられました。それはわたしたちが清められ、神さまの前に正しい者になれたからではありません。心や体が真っ黒のままでも、「さあ、このぶどう酒を飲みなさい。一緒に祝おう」と招いてくださる。神さまはわたしたちをそのままの姿で受け入れてくださいます。

 今わたしたちは、新型コロナの影響で物質的な食卓にはあずかっていません。しかしわたしたちは、いつも招かれています。霊的な神の国の食卓においで、そのままの姿でいいからと、神さまは招いてくださっています。

 そのことを信じ、歩んでいきましょう。そして神さまの思い、わたしたちが生きるようにとの思いを受け止めていきたいとおもいます。神の国の祝宴は、わたしたち一人ひとりのために用意されました。