2023年3月26日<大斎節第5主日>説教

「出てきなさい」

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 ヨハネによる福音書11章17~44節

 復活日まであと2週間、桜は今や満開です。冬の間、枝のみの寒々しかった木々が、ピンクのふわふわの綿菓子かのように生まれ変わりました。桜の花を初めて見る人にとっては夢のようなサプライズです。「神さまのなさることは時にかなって美しい。」まさに、このみ言葉が口をついて出てきます。

 私たちの人生においても、時に夢のようなサプライズが起こります。誰かに恋をしたとき、結婚の約束をしたとき、自分のおなかに生命が宿ったとき、大切な人が洗礼の恵みに与ったとき。また、期待をしていなかったことが思わぬ結果を生み出したり、暗闇の中に小さな光を見出すこともあるでしょう。そんな時、イエス様を知る私たちは、それが単なる偶然ではなく、やはり神さまはおられ、すべてが神のご計画の中にあるということを確信します。キリスト教の信仰は本当に単純です。

 今年A年の大斎節では、4週間にわたって、ヨハネによる福音書が読まれてきました。そこに描かれているのは、イエス様に出会い、見る景色がいっぺんに変わった人たちの物語です。自分の向きを180度くるりと変えて、神さまの方に向き直ることを「悔い改め」言いますが、向きを自分で変えたというよりは、イエスさまの背後から自分に向かって差す光に気づかされた、そしてその光に顔を向けたときに、新しい命に生まれ変わらされた、そのような体験です。

 3週間前の大斎節第二主日、ニコデモの物語が読まれました。ニコデモはファリサイ派の頭でっかちな人物で、イエス様をもっと知りたい、救い主として受け入れたいと思っているけれど、頭で理解しようとして、心を開ききることのできない人でした。でも、イエス様はそんな彼に、新しく生まれなさいと言います。頭であれこれ考えず、すべて聖霊に委ねなさいと。ニコデモがその後どうしたかは書かれていませんが、きっとイエス様に示された光に気づき、心の扉を開いたに違いありません。彼は最後までイエス様に従い、弟子たちが逃げてしまった後、十字架で死なれたイエスさまをお墓に葬った人たちの一人として覚えられています。

 その次、大斎節第三主日の福音書は、サマリアの女の物語でした。井戸に水を汲みに来てイエス様に出会います。彼女は不幸な人生を歩み、人々から蔑まれ、苦しく辛い孤独な人生を歩んでいました。民族的に差別されていたサマリア人である彼女に、イエス様は、水を一杯のませてほしいと声をかけ、言われます。「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女はイエス様に出会い、その水をいただきました。そして命を与えるその水はその通り、彼女の内から湧き出るように流れ出し、多くの人々を光の中へと導きました。

 先週の第四主日は、生まれつき目の見えない人のお話でした。当時、病気や障害は過去に犯した罪の結果であると考えられ、本人のみならず、親まで罪意識に苦しめられていました。イエス様は、その人が目が見えないのは、犯した罪のせいではない、神の業がその人に現れるためであると語り、見えなかった目を開き、見えるようにされます。それまで物乞いとしてしか生きる道がなく、人々から石ころのように扱われ、人目をはばかって暮らしていた彼が、堂々と人々の前でイエスさまを神の子として証しし、信仰を告白しました。

 そして今朝、A年の大斎節ヨハネシリーズの最終章として読まれたのはラザロの復活の物語です。一度死んだ人が生き返るという内容が衝撃的過ぎて、私たちの思考はそこで止まってしまいがちですが、注目すべきところはそこではありません。これまでの三つの物語と同じように、暗闇の中で希望を失い、もう立ち上がることができないと思うほどの深い悲しみの中にある人々に、イエス様は神の栄光を現わし、光を照らしてくださる。そして光の中へといざなってくださる。このことを示す物語なのです。

 べタニアのマルタとマリア、そしてラザロは、イエス様が生前とても親しくしていた兄弟姉妹でした。しかし、ラザロは病気になり、死んでしまいます。主に触れられた病人は必ず癒されることを知っていたマルタとマリアは、そのことを悔やんでも悔やみきれず、イエス様が到着したときに、泣きながら口々に言います。「主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。彼女たちの涙を見たイエス様は、涙を流されました。「泣くな。おまえたちの信仰はなんて小さいんだ。わたしを信じないのか」と𠮟ることなく、主は泣く人とともに涙を流されたのです。愛する人を失う悲しみがどれほど深く、どれほど辛いものか、イエス様は分かっておられました。その上で、主は言われます。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。「決して死ぬことはない」。それは、私たちが何百歳までも死なずにいるということではありません。ラザロのように皆、蘇生するということでもありません。それは、どんなにつらいことがあろうとも、いかなる絶望のどん底に落とされようとも、再び立ち上がらされるということです。神さまの光の中で新しい命に生かされるということなのです。

 「ラザロ、出てきなさい」と主は大声で叫ばれ、死人は真っ暗な墓の中から光の中へ出てきました。このラザロは、今ここに生きるわたしたち一人ひとりです。

 17世紀のイタリアの画家カラヴァッジョの作品に「ラザロの蘇生」があります。ラザロは大きく手を広げて、まるで十字架から降ろされたかのような形で人々に抱きかかえられています。右端の頭の所にいる二人の女性がマルタとマリア、そして、いちばん左で右腕をラザロの方にまっすぐに伸ばしているのがイエスです。不思議なことに、ここではイエスは非常に目立たない存在、脇役として描かれています。この絵を通してカラヴァッジョが伝えたかったものは光でした。イエスさまの背後から彼の腕先を通して射し込む強烈な光です。今まさに、この光を浴びたラザロが、暗闇の中で再び立ち上がる瞬間です。この絵の中心が二千年前に生きたイエスという人物でなく、光であることは、彼の周りに立つ人々の顔の向き、視線から分かります。三人の男たちが、いっせいにイエスの後ろにある光に顔を向けているのです。この光は何を意味するのでしょうか。それは、俗の世界、罪の世界、死の世界に打ち勝つ神の恵みであり、神の意志であり、神の救いのしるしなのだと思われます。そして、そのしるしは、イエス様が昇天し、地上から去った後においても、時代を超え、空間を超えて日常のいたるところに存在するということをカラヴァッジョは伝えたかったのではないでしょうか。

 これは二千年前に起こった、単なる奇跡物語ではないのです。私たちは、今イエス様に出会い、その背後から射し込む強烈な光に照らされています。ニコデモのように、サマリアの女のように、生まれつき目の不自由だった人のように、そしてラザロ、マルタ、マリアのように。そのことに私たちは気づいているでしょうか。その光にしっかりと顔を向けることができているでしょうか。それができたとき、私たちは変えられています。新しい命に生かされているのです。

 イエスさまは布でぐるぐる巻きのまま光の中に出てきたラザロを前に、そばにいた人々に言われました。「ほどいてやって、行かせなさい」と。光の存在を知った私たちも今、ぐるぐる巻きにされていた罪と死の鎖を解かれ、「行きなさい」と呼びかけられています。イースターまでの2週間、しっかりと心の耳を澄まし、光に包まれた真理の道を歩む決心をしていきましょう。