2022年5月15日<復活節第5主日>説教

「愛につつまれて」

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 ヨハネによる福音書13章31~35節

 今日の場面でイエス様は弟子たちに、「互いに愛し合いなさい」と命じられました。この言葉は聖書の中でも、とても有名なものです。しかしその反面、それを実行しようとなると、決して簡単なものではありません。人を愛し、そして人から愛される。そのことをわたしたちには本当に出来ているのでしょうか。

 今のロシアとウクライナの出来事を見ても、「愛し合う」とはまったくもって程遠い現実がそこにはあります。また、わたしたちの身近なところを見ても、いつも、どこにでもいさかいがあり、争いごとから解放されることがないのが正直なところです。ではイエス様は、わたしたちに理想を語られたのでしょうか。「こういう風になれたらいいね」と、高い目標を定められたのでしょうか。

 今日読まれたヨハネによる福音書13章は、映画で言うとクライマックスに向かっていく、そのような箇所です。14から16章という3章にわたってイエス様は、弟子たちに長いお説教を語られました。そして17章にはイエス様が神さまに祈られた言葉が記されています。それから18章で逮捕され、尋問され、死刑の判決を受けられたイエス様は、19章で十字架につけられ、息を引き取られます。そしてお墓に葬られるのですが、20章で復活され、そこから21章にわたって復活のイエス様がいろいろな人たちにあらわれるということが書かれています。

 さて、今日読まれた13章には、とても心に残るシーンが数多く描かれています。1節からはイエス様が弟子たちの足を洗う、いわゆる洗足の記事があります。そしてその後には裏切りの予告、イスカリオテのユダがご自分を裏切ることを知り、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」という場面が続きます。

 そして今日の箇所を挟み、続いてペトロが否認することを予告されるイエス様。つまり今日のこのイエス様の言葉は、ご自分が十字架へと向かう中、弟子たちの裏切りを知り、見捨てられることを分かっている中で語られたことなのです。

 イエス様はどのようなお気持ちで、弟子たちに語られたのでしょうか。13章1節には、このように書かれています。「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」。イエス様は弟子たちを愛するが故に、弟子たちにも同じようにお互いに愛し合うように言われました。そしてわたしたちにも同じように言われます。「わたしがあなたがたを愛するように、あなたがたもお互いに愛し合いなさい」と。

 しかしそのときに、思わないでしょうか。「愛ってなんだろう」って。愛を与える、愛を注ぐ。そのような言葉を聞くと、愛というものは人から人へ、パスされる、受け渡されるもののように思えます。でも別の箇所で、聖書にはこのようにも書かれているんですね。「わたしの愛にとどまりなさい」と。愛にとどまる。この言葉から、みなさんは愛について、どのようなイメージをもたれるでしょうか。

 以前、結婚式の準備会の中で、「愛にとどまるとはどういうことだと思いますか」ということについて分かち合いました。その中で、こういう思いが浮かびました。「愛にとどまる」、それは関係性のことを言っているのではないだろうか。イエス様の「わたしの愛にとどまりなさい」と言われるその言葉は、「わたしと共にいなさい」という意味と同じなのではなかろうか、そういう風に思えたのです。

 そうすると、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」というその言葉は、こう捉えることができるのではないでしょうか。「わたしがあなたといつも一緒にいるように、あなたも隣にいる人と共に歩みなさい」と。

 先週、マラナタ会の例会の前、参加する人たちと一緒にサンドイッチをいただきました。部屋の中で密になって食べるのはまだよくないので、園庭やシオンホールのテラスなど、様々な場所に分かれて食べました。 わたしが奈良に来てから、礼拝のあとに教会でうどんを食べたのは一度だけです。つい二年前は当たり前だったことが当たり前ではなくなりました。

 でも今日から、聖餐式が再開されました。みんなで主の食卓を囲む日々がかえってきました。一緒に食卓を囲む、共にイエス様の体と血をいただく。そのことこそ、一緒に交わることこそが、互いに愛し合うことなのです。

 聖餐をいただくことでイエス様の愛に連なり、一緒にいただくことでお互いに愛の中にわたしたちはとどまるのです。この場におられなかったとしても、YouTubeで礼拝を守られていたとしても、ただ祈ることしかできなかったとしても、関係ありません。物質的なものなど超えて、わたしたちは結ばれ、神さまの愛の中で生かされるのです。

 「互いに愛し合いなさい」、その掟は、今、隣にいる人に対してどうこうしなさいということだけにとどまりません。わたしたちが生かされているこの神さまの大きな愛を知らせ、この愛の中にたくさんの人を招き入れなさいということなのです。それを教会では、「宣教」と呼ぶのです。

 この前、ある会合で興味深い話を聞きました。ある牧師さんが話をしてくださったのですが、彼は、教会の宣教は美味しい料理店を人に勧めることと似ているって言うんです。でも「あそこの店、おいしいよ。今度食べに行ってごらんよ」というのは、教会の宣教とは違うって言うんですね。

 わたしが勧めるあのお店に、あなたも今度行ってみたらいい。きっと感動するから。普通にお店を紹介するのであれば、それで十分でしょう。行くか行かないかはその人が決めること。でも行けばきっと喜ぶに違いない。

 しかし、彼は言います。教会の宣教とは、そうではないのだと。行って来たらいいよ。そんなのは違うんだと。そうではなくて、こういうことだと言うんです。

 「あそこの店、おいしいよ、今度一緒に食べに行こうよ」。一緒に行くんです。一緒に食べるんです。一緒に満足し、一緒に笑顔になり、一緒の時間を過ごすのです。それが、その人を愛することなのだと思うのです。

 神さまが用意してくださった食卓は、すべての人に開かれています。その食卓に一緒においでよ、一緒に食べようよ。そう誘い合える教会になれるよう、わたしたち一人ひとりが導かれますように、お祈りいたしましょう。