2024年2月11日<大斎節前主日>説教

「山をくだる」

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 マルコによる福音書9章2~9節

 大斎節前主日となりました。今日は、マルコ福音書の9章が読まれました。ここには大きな意味があります。今日の福音書では山の上に登られたイエス様の姿が描かれていますが、ちょうどこの箇所を頂上として、この9章以降、イエス様は十字架に向けてまっすぐ歩いて行かれたということです。まるで山を下るかのように、進んで行かれるのです。そのためマルコによる福音書は、長大な受難物語だと呼ばれることがあります。そのことを少し頭の片隅に置いて、今日の福音書に目を向けてみたいと思います。イエス様は6日ののち、ペトロ、ヤコブ、ヨハネという三人の弟子だけを連れて高い山に登られたとあります。

 その前の出来事、8章の最後あたりには、イエス様が語られた、とても重要な内容が記されています。それは「イエス、死と復活を予告する」というものです。この最初の受難予告に対する恐れや戸惑いは、とても大きかったのだと思います。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」、そのイエス様の言葉を、弟子のペトロは簡単に受け入れることができませんでした。ペトロはイエス様をわきへ連れていき、いさめます。弟子であるにもかかわらず、先生の行動を強い口調で否定するのです。それに対してイエス様は、振り返り、弟子たちを見ながら、ペトロを叱って言われるのです。「サタン、引き下がれ。あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。

 今回の出来事は、それから6日後です。ペトロを始め弟子たちは、どのような会話をしていたのでしょう。「なぜイエス様が殺されないといけないんだ」、そういう疑問もあったでしょう。「俺たちでイエス様を守ろう」、そう意気込んだかもしれません。「それよりも『復活することになっている』ってどういう意味だ?」という声も出たでしょう。しかし彼らの中では、何の解決も生まれなかったと思います。弟子たちはイエス様に従う中で、たくさんの人たちが生きる力を与えられ、神さまに見捨てられていたと思われていた人たちが立ち上がって来た、そのような姿を目の当たりにしてきました。どんどん従って来る人の数も増えたことでしょう。まさに山の上にどんどん登って行くように、彼らの心は希望で一杯になっていたと思います。

 その、まさに頂上に差し掛かろうかとしていたときに、イエス様の受難予告があったのです。弟子たちは梯子を外され、崖の上から突き落とされたような思いも持ったことでしょう。6日間、彼らはモヤモヤした気持ちの中で、過ごしていたわけです。

 そして6日目、イエス様が自分たちに向かって言われます。「山に登ろう」と。イエス様は時折一人で山や人里離れた場所で祈っておられるのは知っていました。でも今日は違います。ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人に、一緒について来いと言われるのです。一度どん底に落とされた彼ら弟子たちでしたが、「もう一度山に登れる」というその事実は、彼らに大きな希望を与えたかもしれません。この「山登り」は彼らにとって、下界から、そして十字架から離れることができるかもしれない、そのような出来事となるかもしれなかったからです。

 イエス様はペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れ、高い山に登られました。するとイエス様の姿が彼らの目の前で変わり、服は真っ白に輝き、この世のどんなさらし職人の腕も及ばぬほど白くなったそうです。驚くことはそれだけではありませんでした。そのイエス様が、旧約の偉大な預言者であるエリヤと、そして神さまから律法を受け取ったモーセと、共に語り合っていたのです。弟子たちはそれを目の当たりにしました。その光景はまさに、神の国の先取りでした。さっきまですぐそばにあったすべての思い煩いから離れ、近くでずっと聞こえて来たうめきや叫び声からも離れ、何の心配もいらない、光に包まれた世界が目の前に広がっているのです。

 わたしたちも実は、教会に対してそのようなイメージをもつことはないでしょうか。教会はすべての喧騒から離れた別世界。ここに来ればみんなハッピーで、笑顔になる、元気になれる。そしてその真ん中にイエス様がいてくださる。

 ペトロはそのような世界を、イエス様が作ってくれると思っていたのかもしれません。「そうだ、イエス様はこの山にいて、ずっと栄光の中に包まれているべきだ。そしてそこに、わたしも一緒にいたい」、心からペトロはそう願い、そしてこう提案するのです。

 「仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです」。

 その提案に対する答えはありませんでした。でも結果的に、山の上に仮小屋が建てられることはありませんでした。雲の中から「これはわたしの愛する子。これに聞け」という言葉が聞かれ、そしてイエス様は山を下られるのでした。イエス様がなさったこと、それは「山を下られる」ということです。そしてそれが、神さまのみ心でした。なぜ山を下られるのか。それはそこに、自分を必要としている人がいるからです。山の上にいたままでは聞くことのできない民の声に耳を傾け、山の上に来ることのできない人と共に歩む。そしてすべての人の罪を贖うために、山を降りて十字架の道に向かって行く。そのことこそが、イエス様の遣わされた意味、神さまのご計画だったのです。

 このイエス様の決断は、わたしたちとは無関係のものではありません。大いに関係あるところです。この水曜日から始まる大斎節には、様々な意味があります。よく言われるのは、40日間、何か我慢をしてその分を大斎克己献金としておささげしましょうというものです。たとえばお菓子を我慢する。甘いものをひかえる。我慢だけではありません。毎日聖書を読む。決まった時間にお祈りする。本来であれば一年中、頑張りたいところです。でもせめて大斎節の期間だけでも、と思うわけです。ところがなかなかそううまくはいかない。「今日は特別だから」、「ちょっと疲れたから」、様々な理由をつけて、自分を許してしまう。「己に克つ」と書いて「克己」と読みますが、わたしたちはあらゆる誘惑になかなか打ち勝つことができません。でも、それでいいのです。そんな自分の姿に気づくことが、実は大事なのです。自分の力だけですべての誘惑を退け、自分の欲望にも勝つことができるのであれば、イエス様は必要ない。自分で山に登れるからです。

 でも神さまは、どうしても山に登れず、地上の泥沼でうめき、叫んでいる人々を見捨てることができませんでした。その一人ひとりを愛するがゆえに、イエス様を山から下らせました。そのイエス様が向かった先には、わたしたちもいるのです。もうすぐ始まる大斎節、自分の弱さを何度も感じていきましょう。そしてそのたびに、イエス様にすべてをお委ねすることができればと、心より願います。