2023年5月14日<復活節第6主日>説教

「わたしもつながっている」

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 ヨハネによる福音書15章1~8節

 イエス様は聖書の中で、様々なたとえを語ってこられました。たとえとは、ある物事を理解しやすいように、身近なものにたとえて話すことです。

 イエス様は言われます。「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である」と。そして続けられます。「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる」。さて、この言葉を聞いたときに、わたしたちの心に浮かぶ農夫である神さまの姿は、手入れをなさっている様子でしょうか。それとも大きなハサミを持って、次々に枝を切り捨てていく様子でしょうか。

 限られた水や養分が効率よく使われるように、弱った枝はもとより、二手に分かれている枝の片方も切り捨てる。これはよくおこなわれることです。そうすることで、実は大きく、豊かに育ちます。そう考えてみると、今日の箇所はわたしたちにとって、何だか怖いものとなるのではないでしょうか。自分は十分に実を結んでいると自信をもって言える方は、「そうだ、そうだ」と思えるかもしれません。しかし自分が、実を結べていないとしたら。農夫である神さまはそんな枝を、バサッと切り捨てる。神さまはそのような枝は、取り除かれるのだ。イエス様がそのことを伝えたかったのだとすると、とても恐ろしいと思ってしまうのはわたしだけでしょうか。

 「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」、それはいったいどんな枝なのかと考えてしまいます。枝の根元から折れていたら、多分実は結びません。でもそれって、木につながっていることになるのでしょうか。間違ってぶどうではなく渋ガキの実をつけてしまった。たしかにそれは怒られそうです。でもそんなことが現実にあるとも思えない。

 そう思いながら、もう一度聖書の言葉に耳を傾けてみました。すると、「わたしにつながっていながら、実を結ばない枝」のことを言及されたイエス様は、次ように語られていることに気づかされます。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない」。そして、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」。これらのイエス様の言葉に共通しているのは、「わたしにつながっていなさい」ということです。「あなたは頑張って実を結びなさいよ」と命じられているのではないのです。

 わたしにつながってさえいれば、必ず実を結ぶ。それも豊かに結ぶ。これがイエス様の伝えたい事であるならば、わたしたちはこの箇所から二つのことに気づかされるのではないでしょうか。

 一つ目は、つながっているつもりが実を結ばない。それは本当は、つながっていないということなんだということです。イエス様に、教会に、神さまに自分はつながっていると思っていても、心はあっち向いたり、思いがどっかにいってしまったり。そして神さまに背を向け、様々な誘惑に飛びついてしまう。まるでぶどうの枝がとんでもない方向に伸びていってしまうかのように、せっかく準備した支柱も棚も無視してしまうかのように、勝手気ままに伸びてしまうぶどうの枝。そんなものは切ってしまわれるぞ、そのような警告がイエス様の言葉の中に響きます。

 でもそれよりも、わたしたちが心に留めたい大きな約束が、実はこの言葉の中に示されているのです。それが二つ目のこと、そしてこれが今日、この箇所からわたしたちが与えられる大きな喜び、約束なのです。その約束とは、「わたしもあなたがたにつながっている」という言葉です。わたしたちはイエス様の言葉を聞くときに、「あなたはこんな風にしなさい」というところばかりが耳に残ってしまい、「こうしなきゃ」とばかり思ってしまいます。先週能動的な信仰と受け身の信仰というお話しをしましたが、これはまさに能動的な信仰です。

 しかしここで、強調点を変えてみたいと思うのです。「わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている」という言葉を聞くときに、「つながらなきゃ」というわたしたちの行為ではなく、「つながってくださるんだ」というイエス様の約束を心に留めていきたいのです。

 わたしは中学生になってすぐに教会に行き始め、高校を卒業したときに洗礼を受けました。6年間ずっと教会を中心とした生活を送り、いつも神さまにつながっている、そう思っていました。しかし県外の大学に進み、親元を離れ独り暮らしを始めてから、生活の中心は教会ではなくなってしまいました。それどころか礼拝に行くこともなくなり、完全に心も体も神さまから離れてしまいました。「わたしにつながっていなさい」。そのイエス様の命令を、わたしは守ることができなかったのです。しかし30歳半ばにして、人生に疲れ、孤独を感じていた病院のベッドの上で、「もう一度お祈りをしてみよう」と思い立ったそのとき、心に何とも言えない温かいものを感じました。確かにイエス様がそばにいてくださることを感じた、そんな経験でした。

 わたしがどんなに手を離していても、心をよそに向けていても、神さまに背を向け続けていても、イエス様はわたしの手を握り続け、いつわたしが戻ってきてもいいように、いつもそばにいてくださった。「わたしもあなたがたにつながっている」というイエス様の約束は決して破られない、それが聖書が今日、わたしたちに伝えたいことなのです。

 わたしたちは日々の歩みの中で、何度も倒れ、心震え、立ち止まってしまうことがあります。神さまよりも他のことに目が行ってしまい、神さまから離れてしまうこともあるでしょう。でも大丈夫です。わたしたちがそのように弱い一人ひとりであること、神さまは一番よく知ってくださっています。

 「わたしにつながっていなさい」。そうは言ったものの、それが自分の力で出来るのであれば、イエス様の十字架は必要なかったのです。

 「わたしもあなたがたにつながっている」。その約束を実現するためにイエス様は十字架に死に、三日目に復活なさいました。その復活のイエス様を心に迎え入れ、歩んでまいりましょう。

 わたしたちがこの手を伸ばすことを、イエス様はいつも待っていてくださいます。