2021年6月20日<聖霊降臨後第4主日(特定7)>説教

「静まれ」

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マルコによる福音書4章35~41節

 今日、奈良基督教会では洗礼堅信式がおこなわれます。そのため礼拝堂での司式・説教は高地主教がなされます。ですので今から語る説教は、YouTube動画と週報に挟んである説教要旨用のものとなります。

 今日の福音書には、イエス様が嵐を静められる場面が描かれています。この場面から、3つのことについてお話しをしていきたいと思います。

 1つ目は、「共におられる」ということです。今日の場面でイエス様は弟子たちに「向こう岸に渡ろう」と告げ、舟を出発させます。そしてイエス様は弟子たちと一緒に乗り込まれます。イエス様はわたしたちを見捨て、「勝手に向こう岸に行きなさい」とは言われません。自分たちだけで行きなさいと言われた場面もありますが、そのときも後から来てくださいました。

 ところが嵐が近づき、波が高くなり、舟が沈みそうになると、弟子たちは自分の力に頼ろうとします。帆をたたみ、荷物を軽くし、水をかき出し、何とか舟が沈まないように頑張るのです。

 それはわたしたちも一緒です。心に余裕があり、穏やかなときには、わたしたちは神さまのぬくもりを感じることができる。神さまが共に歩んでくださっていることを、わたしたちは知っています。ところが不安や恐れ、悲しみや苦しみが襲ってくると、イエス様はそばにはいてくれないと感じてしまう。探し求めることすら忘れてしまうわけです。

 弟子たちは、「そうだ、イエス様は一緒に舟にいるはずだ」と思い出します。そして探し回った結果、舟の艫の方で枕をして眠っているイエス様の姿を発見します。2つ目は、「イエス様は眠っておられる」ということです。

 この眠るイエス様の姿を、わたしたちはどのように理解したらよいのでしょうか。わたしたちにとっては大騒ぎするような困難も、イエス様にとっては昼寝をしておいても大丈夫な出来事なのだということなのでしょうか。それともイエス様は、わたしたちの恐れには無関心なのでしょうか。

 もう一年以上、わたしたちは新型コロナウイルスという目には見えない感染症の恐怖におびえています。日常は制限され、今までと同じ交わりは難しい状況が続いています。何度祈ったことでしょう。何度叫んだことでしょうか。イエス様の導きを求め、イエス様に助けてほしい。そう思ったことは何度だってあったと思います。しかし何の反応もない。本当にイエス様はいてくれるのだろうか。わたしの小舟に乗ってくれているのだろうか。そう感じることはなかったでしょうか。

 嵐の中、舟の艫の方で枕をして眠っているイエス様。その情景を思い浮かべると、少し残酷に感じます。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」とイエス様に言う弟子たちの気持ちもよくわかります。

 そんな弟子たちに対し、イエス様はこう言われるんですね。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。これが今日お話ししたい3つ目のことです。

 昔、黙想会に参加したときに、このような時間がありました。それは様々な聖書の場面を取り上げて、そのときのイエス様の表情はどうだったのかを想像するということでした。

 その中で今日の場面についても考えてみました。イエス様はどのような感じで弟子たちに言ったのでしょうか。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」という言葉を、どんな顔で弟子たちに投げかけたのでしょうか。

 イエス様はクタクタで少しの時間も惜しんで、眠っていた。少しぐらい波が荒れたとしても、昔漁師をしていた弟子もたくさんいます。まあ大丈夫だろうと思っていた。ところが無理やり起こされたわけです。せっかく舟の艫の方に隠れて寝ていたのに、見つかって連れていかれた。そのイライラが表情にでていた。これが①。

 あるいはすごい怖い表情をしていたかもしれません。弟子たちはどうしてわからないんだろう。理解しないんだろう。わたしがいることを知っているはずじゃないか。それなのにあたふたして。そういう怖い表情が②。

 悲しんでいたかもしれません。あんなにいつもそばにいて、自分の教えや行動を知っていた弟子たちなのに。その情けなさに泣きそうになった。これが③。

 ①でも②でも③でも、想像するだけで辛くなってしまうのはわたしだけでしょうか。イライラしているイエス様。怖い顔をしているイエス様。悲しんでおられるイエス様。そんな姿を心に描くと、わたしは祈ることができなくなってしまいます。イエス様に頼ることがいけないことだと感じてしまうのです。

 その黙想会の中で、祈りました。イエス様はどのようにわたしに関わろうとしてくださっているのか。わたしが強くならなければならないのか。わたしが頑張らなければならないのか。

 そのときにわたしの心に浮かんだイエス様の姿をお話ししたいと思います。それは笑いながらわたしに語り掛けてくる姿、笑顔いっぱいでニコニコしながらそばにいるイエス様でした。

 イエス様はわたしたち一人ひとりに言われます。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と。でもそれは決して、イライラしてでも、怖い顔をしてでも、悲しみながらでもないのです。当然、寝ているところを邪魔されたなどとは思われてはいません。

 イエス様はニコニコしながら、「なぜ怖がるのか」と語ってくださる。満面の笑みを浮かべて「まだ信じないのか」と笑い飛ばしてくださるのです。そのイエス様の姿を心に感じたときに、わたしの心はとても穏やかになりました。

 わたしたちが弱く、すぐに恐れ、うろたえることなど、イエス様はよくご存じです。「やれやれ、困った奴だなあ」と何度も手を差し出してくださいます。わたしたちができること、それは自分の力に頼って右往左往することではなく、必ずそばにいてくださる方を頼ること。信じてすべてをお委ねすることなのではないでしょうか。

 今日、教会では洗礼堅信式がおこなわれます。わたしは洗礼を受けたとき、思いました。「これで大丈夫。もう不安や恐れとはおさらばだ。これからは平穏な日が訪れる」と。 ところが現実は違いました。わたしたちの前には当たり前のように苦難が訪れます。嵐が来ます。わたしたちの舟は揺れ続けるのです。

 イエス様は、わたしたちの舟に一緒に乗り込んでいるということを忘れないでください。わたしたちが自分の力で何とかしようとしている間は、ぐっすりと寝ておられるかもしれません。しかしわたしたちが「イエス様、お願いします。あなただけが頼りなのです」とすべてを委ねるときに、イエス様は笑いながら、こう言って嵐を静めてくださるのです。

 「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」。