「湖の上を歩く」
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マルコによる福音書6章45~52節
劇団四季のミュージカル、ジーザスクライスト・スーパースターを見ました。ストーリーは、イエスが十字架につけられるまでの7日間で、当時のエルサレムの荒れ野に漂う空気や匂いまでも再現したような舞台と衣装、そして、そこに絶妙に合わせられた60年~70年代のロックミュージックが流れます。ローマの圧政によって苦しみもがく民衆の前に突然現れた一人の青年、イエス。彼は神の愛を説き、人びとを癒し、カリスマをもって、あれよあれよという間に、ユダヤの民衆が何百年もの間待ち望んできた、神から与えられる王であると信じられ、まつりたてられていきます。
そんな中、ユダヤの宗教指導者たちは、いまやスーパースターとなったイエスに目を付け、あれは神の冒涜だ、あいつは生かしておいてはならないと決断します。そこに登場するのが、このミュージカルのもう一人の主役ともいえる、イスカリオテのユダです。聖書には書かれていないユダの内面、どうして彼が愛する先生を裏切ることになったのか、そこにどんな苦悩があったのかがとても丁寧に描かれます。そして、ついさきほどまで、イエスにホサナ、ホサナ、王様万歳!と歓喜の声を上げていた民衆は、一気に掌を返し、「十字架につけろ!」と叫び始めます。バックには、「ジーザス・クライスト、誰だあなたは、あなたは自分を誰だと言うのか」、というテーマ曲が流れ、イエスは39回激しく鞭を打たれた後、十字架に釘で打たれます。十字架は立てられ、最後に、「神よ、これで終わりです」――聖書の言葉では「成し遂げられた」なのですけれど――、そして「私の魂をみ手に委ねます」と叫んで、舞台は暗闇に包まれ幕は閉じるのです。そう、ここで終わりなのです。その瞬間、私の頬には大粒の涙が伝っていました。
そこからです。割れんばかりの拍手喝さいが私の体を包み、現実に引き戻されました。ハッとして周りを見ると、スタンディングオベーションです。拍手は鳴りやまず、カーテンコールは7,8回も続きました。私は座ったまま、やりきってすがすがしい顔をしている俳優たちを見つめながら放心状態にあるかのように拍手をしていました。何なんだろう、この違和感は? それは、受苦日の礼拝が拍手喝さいで終わったような感じでした。劇団四季は本当に素晴らしかったし、演出も音楽もとても味わい深くて、少しのフィクション部分はあったけれども全体的には非常に聖書に忠実でしたし、その鳴りやまない拍手とスタンディングオベーションは完全に適切です。でも、その思いとは別に、信仰を持つ心の目で、聖書を読むようにこのミュージカルを見てしまって、心から拍手ができない自分がいました。心の目でこのミュージカルを見たときに、なぜ拍手ができないかというと、やはり復活がなかったからなのです。十字架で終わってしまったからなのです。ストーリーの中でイエスが神の子かもしれないということを何度か匂わせられながらも、結局は凄い人間だったという結末だったからなのです。どこまでも、イエスは、いっときのスーパースターでした。
ストーリーの中でもイエスはスーパースターであり、そして、ストーリーの外側、舞台を食い入るように見つめる満席の観客たちにとってもスーパースターだったのです。決して観客が悪いと言っているわけではありません。おそらく見ている人の大部分がクリスチャンでなかったでしょうし、聖書なんて読んだことのない人が大勢いたでしょうから、当たり前のことです。
でも、その事実にちょっと打ちのめされた自分がいました。私は違う。私は、いつも片時もイエス様がそばにいてくださることを信じて疑わないはず。そう思いたい。けれども決して思えない自分の心の中を見せつけられた気がしたのです。イエス様を救い主と信じ、人にイエス様を伝えたいと思い牧師になった私なのに、祈りが聞かれたと思ったときだけイエス様を自分のスーパースターにしていないだろうか。苦しみの中に復活の主がおられるということを心から信じて生きているのだろうか。そんな思いがぐるぐると回り始めました。
そんなもやもやを抱えたまま、今日の福音書に入りたいと思います。先週、五千人の供食の話が読まれましたが、そのすぐ後のお話です。弟子たちは、イエス様の話を聞きたくて集まった大勢の人たちに、5つのパンと2匹の魚が分け与えられて全員が満腹したというものすごい奇跡を目の当たりにしながら、イエス様がいったい何者なのか分からないままいました。それこそ、スーパースターです。誰にもできないことをし、人びとを救うスゴイ人物としか彼らの目には映っていなかったようです。そのあとすぐ、イエス様は弟子たちを強いて、無理やりガリラヤ湖を渡る舟に乗せました。心もお腹も満たされた群衆を解散させられ、弟子たちとも離れてひとり、祈るためです。この時間だけが、イエス様ご自身の癒しのひとときだったのかもしれません。イエス様が祈り終え、ふと湖の方に目をやると、弟子たちの乗った船が逆風のため漕ぎ悩んでいるのが見えました。「逆風のため漕ぎ悩む」。もう、私たちの人生そのものです。文字通り順風満帆のときもあるのでしょうけれど、ふりかえれば、漕いでも、漕いでも前に進まないというときがすごく多いような気がするのは私だけでしょうか。自分のことだけでなく、家族のこと、職場のこと、友人のこと、地域のこと、そして世界のこと。やっても、やってもうまくいかない。祈っても、祈っても聞かれない。将来どうなるのか、不安で眠れなくなるようなときさえあります。
イエス様はその苦しみを知ってくださっています。そして、夜が明けるころ、湖の上を歩いて弟子たちのところに行き、そばを通り過ぎようとされました。サラッと書いてありますが、すごいことです。朝の5時ごろでしょうか? 湖の上を歩いて弟子たちの舟まで行き、舟に乗り込むのかと思いきや、そばを通り過ぎようとされたのです。きっとイエス様は、ご自分が何者なのかを弟子たちに悟ってほしかったのでしょう。弟子たちは、空が白んでくる中、湖の上を風に逆らってスーッと動く人影を見て、幽霊だと思い、大声で叫びました。そりゃそうでしょうと思います。私もそこにいたらギャーっという声しか出ないと思います。
でも、よく考えてみてください。弟子たちは、イエス様とずっと寝起きを共にし、彼によって起こされる数々の奇跡を目の当たりにしていました。直前にも、5つのパンと2匹の魚が五千人を超えるお腹を空かせた人々に分け与えられたという奇跡を体験したばかり。そして、そのちょっと前には、同じ舟に乗っていたイエス様が嵐を静めたという奇跡にも居合わせていたのです。12人のうち誰か一人くらい「あ、またイエス様だ!助かった」と叫ばないだろうかと思うのですが、そうではなく、「皆はイエスを見ておびえた」のです。
そんな愚かな弟子たちを見て、イエス様はすぐ言われました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」そして舟に乗り込まれると、風は静まりました。イエス様、優しいですよね。でも、ここでは、イエス様の優しさではなく、弟子たちの心に焦点を当てたいと思います。毎日会っているイエス様がすぐそばを歩いておられても、自分たちがパニックでいるときには彼が見えないのです。ちょうど、もう一つのガリラヤ湖の嵐の奇跡においても、舟が今にも沈みそうになったとき、イエス様がその舟の中で眠っておられることを思い出せなかったのと同じように。奇跡が起こっても、驚いたとか、不思議に思ったという思いしか出てこないのです。
福音書記者は、その説明として、「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていたからである」と書いています。この「心が鈍くなっていた」という言葉、新しい聖書訳では、「心がかたくなになっていた」と訳されています。かたくなには、「心が受け付けない」というニュアンスが入っています。自分には分からない、だから受け付けないという人間の悲しい心です。マルコによる福音書は、この弟子たちの無理解を何度も示し、そしてとうとう最後までイエス様が何者であったかを理解しなかったということで終わっています。けれども、他の福音書に書かれているように、弟子たちは、やがて復活の主に出会い、イエス様が天に昇られた後には聖霊を受けて、主の復活の証人となって、世界の果てまで福音を伝えてゆくのです。
さて、私たちは今、どこにいるのでしょうか? 神さまの働きが目に見える時だけ自分たちのスーパースターとし、逆風に舟がこぎ悩むときには、そばにおられることさえ分からず、神さまなんかいない、どうせ祈りは聞かれない、分からないこと、ありえないことは受け入れないというかたくなな心を持っていないでしょうか。もし、そうだとしたなら、私たちの信仰物語は、かなしいかな、イエス様の十字架で終わってしまっているのです。十字架の向こうには光があります。その光に包まれたとき、私たちは初めて、拍手喝さいをし、スタンディングオベーションをして、どんなときもそばにいてくださる神さまを賛美し、ありがとうを言うのです。