2025年1月12日<顕現後第1主日・主イエス洗礼の日>説教

「聖霊が注がれた」

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 ルカによる福音書3章15~16、21~22節

 このひと月の間に、わたしたち奈良基督教会では二度の洗礼式をおこなうことができました。先週の洗礼式は、いわゆる幼児洗礼式、一人の幼子が洗礼の恵みに与りました。実は洗礼式の前、結構ドキドキしていたことがあります。それはその赤ちゃんのご両親から、その子はすごく元気に泣く子だと伝えられていたということです。

 赤ちゃんは、一体自分が何をされようとしているのか、多分わからないわけです。白い服を着た人がなにやら大きい声でしゃべっていて、パパとママがそれに返事していたと思ったら、その白い服を着た人の手がにゅっと伸びて額に水を掛ける。

 でも先週一緒に礼拝堂におられた方が覚えているように、額に三度水を滴らせたときも、また額に十字のしるしをつけたときにも、まったく泣くことなく、それどころかじっとこちらを澄んだ目で見ているその姿に、とても感動を覚えました。

 きっとわたしたちの洗礼のときも、同じように神さまの恵みが注がれたのではないかと思います。そのことを思い起こしながら、今日の箇所に目を向けてみましょう。

 今日、顕現後第1主日は、主イエス洗礼の日としても毎年覚えています。今年はC年でルカ福音書を読んでいますが、実は3つの福音書にイエス様の洗礼の場面が書かれているのですが、その強調点は少しずつ違っています。たとえば最初に書かれたとされているマルコ福音書には、イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのだとはっきりと書かれています。

 またマタイによる福音書には、イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受けたということがこれまたはっきりと書かれていると同時に、ヨハネが最初イエス様に、「わたしが洗礼を授けるなんてできません」と断ってもいます。

 ところが今日のルカ福音書には、イエス様が誰から洗礼を受けたのかがはっきりとは書かれていません。直前に洗礼者ヨハネの話が出ているのでそうじゃないの?と思うかもしれません。しかし今日読まれたのは3章15節から16節、および21節から22節、つまり17から20節が飛ばされているんです。

 ではその飛ばされたところには何が書かれていたのか、その記述をみると、イエス様の洗礼の前に洗礼者ヨハネは捕まって、牢に入れられていることになります。でも多分、歴史的な事実としては、イエス様は確かに洗礼者ヨハネから洗礼を受けたのでしょう。しかしルカ福音書は洗礼の場面において、イエス様とヨハネとの距離を遠ざけているようにも感じます。それはなぜなのでしょうか。その答えは、このルカ福音書は異邦人、つまりユダヤ人以外の人たちに向けて書かれていたからだと思います。そのことを詳しく説明する前に、少し今日の使徒書、使徒言行録10章34節から38節の話を見てみたいと思います。

 この箇所は、ペトロのこの言葉から始まります。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました」。昨年一年かけて使徒言行録とパウロの手紙を読みましたが、ペトロとパウロとは、かなり方向性が違っていたことに気づかれた方も多かったと思います。

 ペトロはイエス様の一番弟子として、イエス様の復活後、主にエルサレムに残ってユダヤ人に対して宣教していました。それに対してパウロは、何度も宣教旅行をしたり手紙を書いたりして、異邦人と呼ばれるユダヤ人以外の人たちに神さまの愛を伝えていました。そんな中、ペトロはヤッファという場所で幻を見ます。その幻の中で神さまは、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」と三度も伝えます。その結果ペトロは、自分を訪ねてきたコルネリウスという外国人に、このように語るのです。「あなたがたもご存じのとおり、ユダヤ人が外国人と交際したり、外国人を訪問したりすることは、律法で禁じられています。けれども、神はわたしに、どんな人をも清くない者とか、汚れている者とか言ってはならないと、お示しになりました。それで、お招きを受けたとき、すぐ来たのです」。

 ペトロは心のどこかで、人を区別していたのかもしれません。神さまの愛はすべての人に注がれると頭では分かっていても、ついつい「割礼は必要だよ」と言ってしまったり、ユダヤ人の人がいる前では異邦人と一緒にご飯を食べるのをためらったり、そのようなことを繰り返していました。それを見た神さまは、「わたしが造ったすべてのものは清いのだ」と宣言されます。それがユダヤ人であろうとも、異邦人であろうとも、みんなおんなじ神さまの子どもたち、そこには優劣も、区別も何もないのです。

 洗礼式のたびに、思うことがあります。それはこんな自分が洗礼を授けてもいいのだろうかということです。洗礼者ヨハネが「わたしなんて滅相もない」とイエス様に洗礼を授けるのを断ろうとしたのとは、随分レベルは違います。しかしいつも、「こんなわたしが」という思いを持ちます。いくら白い衣で身を包もうとも、たくさんの汚れた部分や醜いところは残ったままです。でもそれでいいのです。神さまはそのような者であっても、大いに用いて下さる。神さまの恵みを、そんなちっぽけな一人を通して示してくださるのです。

 ルカ福音書の中で洗礼者ヨハネが洗礼を授けたことを強調しなかった意味、それはこの洗礼の場面の主人公は、洗礼者ヨハネではなく、あくまでもイエス様、そしてイエス様に注がれた神さまの愛なのです。聖書にはこのように書かれています。

 民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 洗礼は誰から受けたのかが大切なのではなくて、洗礼によって何が与えられたのかが大切だということです。わたしたちは牧師という目に見える導き手によって、神さまの恵みに気づかされていきます。しかしそれ以前に、牧師の働きがあろうともなかろうとも、いつも神さまが直接わたしたちに働きかけているということを、心に留めていきたいと思います。牧師はただ、その手助けをちょっとだけしているに過ぎません。

 神さまが直接わたしたちに聖霊を降し、そして「あなたはわたしの愛する子」だと宣言してくださる。何とうれしいことでしょうか。イエス様によってその愛が、すべての人たちに向けられるようになりました。わたしたち一人ひとり、その愛を受け取っていきましょう。そして神さまの子どもとして、周りの人たちと共に歩んでいけますように、この新しい一年もわたしたちと一緒にイエス様が歩んでくださいますように、お祈りしていきましょう。そしてこの一年、また洗礼式の恵みが与えられますように、一人でも多くの方に神さまの愛が伝えられますように、わたしたちも神さまの器としてなすべきことができますように、お祈りを続けたいと思います。