2020年12月20日<降臨節第4主日>説教

「恐れることはありません」

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ルカによる福音書1章26~38節

 降臨節第4主日となりました。間もなく訪れる救い主の誕生を待ち望むそのときに、わたしたちは今、どのような気持ちで礼拝に向かっているのでしょうか。24日のクリスマスイブの礼拝も休止することを、先日の教会委員会で決定いたしました。宣教的な意味でも大変重要な礼拝であるイブ礼拝を休止するということは、本当に牧師として、また一人の信徒としても、胸が張り裂けるような思いです。

 さて今日の福音書は、マリアの受胎告知の物語です。天使ガブリエルがおとめマリアに「おめでとう」と救い主イエス様の誕生を知らせる、そのような出来事です。このガブリエルからのお告げに対し、マリアは「どうして、そのようなことがありえましょうか」と戸惑ったとあります。この時代、ユダヤでは「子どもが生まれる」ということは、神さまから与えられた祝福の一つでした。長寿、長生きすることや、財産を得ることと同じように、子を授かることは神さまの祝福だと考えられていました。

 この出来事の半年前、洗礼者ヨハネの誕生が予告されました。その父と母はザカリアとエリサベツ、二人とも高齢でした。彼らは子どもが欲しいと願っていました。そこに天使ガブリエルが現れて洗礼者ヨハネが生まれることを予告します。これは喜びです。長年祈り求めていたことがかなえられる。神さまありがとうと心から感謝することができる出来事です。

 ところがマリアは違いました。子どもができるという知らせは喜びではなく、戸惑いです。不安です。その理由はただ一つ、彼女はまだ結婚していなかったからです。彼女にはヨセフという婚約者がいました。結婚を間近にした状態です。ただし一緒に住むことは許されていませんでした。

 その状況の中で、子どもができてしまったらどうなるでしょうか。ヨセフと別れるだけでは済みませんでした。結婚相手がいるのに誰かわからない人の子どもを身ごもってしまった。そのことは聖書で禁じられている「姦淫の罪」に当たります。最悪、石打ちの刑に処せられてしまうかもしれないのです。

 神さまが天使ガブリエルを通じてマリアに送ったメッセージは、受け取ったマリアからすると、喜びどころか恐ろしいものでした。神さまの言われていることが理解できない。なんで自分がそんなことに巻き込まれていくのかわからない。

 でもわたしたちは知らないうちに、刷り込まれているのですね。聖母マリアは、救い主イエス様の母だから、そのようなこともすんなりと受け入れたのだと。お言葉通りになりますようにと、お祈りの姿勢のまま、素直に従ったのだと。

 果たしてそうなのでしょうか。マリアは特別な存在なのでしょうか。彼女は罪のない人間だから、神さまの無茶な告知も受け入れることができるのでしょうか。

 わたしは決してそうではないと思います。なぜなら、聖書にはどこにも書いていないからです。マリアが敬虔な人で、家系もすばらしく、またいつも祈り続けているような人物であったとは、何一つ書かれていないのです。

 それどころか、彼女は決して裕福ではなく、田舎町ナザレに暮らす平凡な人でした。そのことがこの降誕の物語で、一番大事なことなのです。つまり神さまは、そんなどこにでもいるような彼女に目を留められたことが、とても重要なのです。

 この降誕の物語は、わたしたち一人一人の物語です。神さまは特別な人を用いて、神さまの救いのご計画を成し遂げようとはされませんでした。わたしたちと同じように、神さまの目から見たら本当にちっぽけな、小さな一人の女性に声をかけ、そのご計画を成し遂げようとされたのです。

 マリアは言います。「お言葉通り、この身に成りますように」と。この言葉は、信仰の言葉です。神さまにすべてをお委ねする決意です。でも神さまは、この言葉をマリアにだけ求めているのではありません。わたしたち一人ひとりに対しても、求めているのです。

 まもなく、イエス様のご降誕をお祝いする降誕日がやってきます。神さまは今までもそしてこれからも、わたしたち一人一人の心にイエス様を遣わされ、語り続けておられます。そのお告げに、天使ガブリエルは登場しないかもしれません。具体的な声が聞こえるわけでも、明確に示されるのでもないかもしれません。

 しかし神さまは必ず、わたしたちに救いの手を差し伸べられ、そしてわたしたちに関わろうとされます。わたしたちの心に、イエス様というみ言葉を生まれさせ、神さまのみ心のままに用いられようとされるのです。

 けれども残念ながら、神さまのみ心、思いはわたしたちの思い、願いとは違うこともあります。マリアが戸惑ったように、わたしたちも神さまの指し示す道に、神さまがおられるにも関わらず一向に光が見えてこないこの現実に、戸惑い、恐れ、叫びます。

 神さまはわたしたちに何をさせようとしているのでしょうか。わたしたちをどこに連れて行こうとしているのでしょうか。それは誰にもわかりません。しかしその中においても、「お言葉通り、この身に成りますように」と応えることのできる信仰を、わたしたち一人ひとり持ちたいものです。

 今年のクリスマスは、本当に特別なクリスマスです。24日のイブ礼拝ですが、先ほども申しましたように礼拝堂での礼拝は中止をいたします。本当につらい、苦しい決断です。しかしこれは、決して悪いことばかりではありません。といいますのも、24日の午後7時以降、教会のホームページからYouTubeの動画を見ることができるように準備しているからです。教会が閉じていても、イブ礼拝を共にささげることができるのです。

 夜、出歩くことがしんどくなって、イブ礼拝に来ることができなくなっていた方も、仕事で平日は難しかった人も、今年は一緒にお祈りすることができます。その時間にたとえ用事が入っても、いつでも家族やお友達とお祈りすることができます。

 その中で、神さまの壮大なご計画を感じてください。クリスマスという出来事を通して、神さまの愛がこんなにもわたしたちに注がれている、そのことを感じましょう。そしてわたしたちはどのように歩んで行くことを求められているのか、心に留めていきたいと思います。

 その上で、その中で、イエス様のご降誕をお祝いすることができる。喜ぶことができるのです。その特別のクリスマスが間もなくやってきます。その恵みがここにいるすべての人たちの上に、そして世界中のすべての人たちの上に豊かに注がれますよう、お祈りしております。