2021年12月12日<降臨節第3主日>説教

「新しい約束」

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 ルカによる福音書3章7~18節

 今日、降臨節第3主日に読まれた福音書は、洗礼者ヨハネの物語です。先週は今日の箇所の少し前、ルカ3章1節から6節でした。そこでは洗礼者ヨハネがヨルダン川沿いの地方一帯に行って、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えていました。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。谷はすべて埋められ、山と丘はみな低くされる。曲がった道はまっすぐに、でこぼこの道は平らになり、人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」。旧約聖書のイザヤ書にある預言のとおり、彼は人々に向かって叫びます。

 洗礼者ヨハネの言葉を聞いて、人々は震え上がります。このままではダメだ。神さまに滅ぼされてしまう。そう考えた人も多かったのでしょう。人々はこぞって洗礼者ヨハネがいるヨルダン川へと向かい、洗礼を授けてもらおうと進み出ます。

 今月26日に奈良基督教会では洗礼堅信式がおこなわれます。「洗礼を受けたい」、あるいは幼児洗礼の方が「堅信を受けたい」、そう言ったときに、教会はどのような反応をしたでしょうか。

 たいていの場合、「それはうれしいことです。よく来てくださいました」と両手を広げて受け入れてくれたのではないかと思います。なぜならそこには大きな決断があったということを、よく知っているからです。

 ところが洗礼者ヨハネは、自分のところに洗礼を授けてもらおうとやって来た群衆に対し、こう言います。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。

 わたしだったら、泣きますね。何でそこまで言われなきゃいけないのか。せっかく呼びかけに応じて、何とかしなきゃと考えて、震えながらやってきた。別にそのことをねぎらってもらおうとは思いません。でもその言い方はないでしょう、となりませんか。

 キリスト教では洗礼者ヨハネのことを、「旧約最後の預言者」と呼ぶことがあります。この「旧約」とは、いわゆる旧約聖書のことではありません。「古い約束」という意味での旧約ということです。聖書の旧約と新約、約という字は「約束」の約が使われています。「翻訳」の訳ではありません。よく古い翻訳と新しい翻訳というふうに勘違いされる方もありますが、これは「約束」、それも神さまとの約束という意味を含んでいます。

 旧約聖書に書かれている約束は、十戒、そして律法です。殺してはならない。姦淫してはならない。また安息日には、これこれこういうことをしてはならない。様々なことが決められていきました。そして人々はそのことを守ることによって、神さまの元に正しい者とされると考えていました。

 でもそれは、不可能なことでした。思いと言葉とおこないによってすぐに罪を犯し、自分と違う人を排除し、弱い人たちをさらに虐げ、自分だけが正しいんだとうそぶく。そんな人間の姿を見て、神さまは新しい約束を与える必要を感じました。

 それが新約、イエス様の誕生なのです。洗礼者ヨハネが語ること、それが間違っていないことはみんなわかっています。だからみんなヨルダン川へ向かいます。それはわたしたちも同じです。自分が弱いこと、汚い心を持っていること、人を傷つけてしまうこと。わたしたちは知っています。だからこうして集っているのだと思います。

 神さまは、そんなわたしたち人間の罪をよくご存じです。だから罪を犯していない者だけがわたしの元に来なさいと言っても、だれもたどり着けないことをも知っています。わたしたちには新しい約束が必要だったのです。罪にまみれたわたしたちをそのままの姿で受け入れるために神さまがなさった決断、それが独り子イエス様のご降誕なのです。

 先ほど、洗礼式の話をいたしました。わたしは洗礼を志願される方と、教会問答の学びをします。祈祷書の258ページ以降にありますので、26日の洗礼堅信式の前に、一度読まれておかれることをお勧めします。その中に、「洗礼を受ける人に必要なことは何ですか」という問いがあります。その答えはこうです。「罪を悔い改めて悪の力を退け、イエスを救い主と信じ、自分自身をキリストに献げることです」。

 どう思われたでしょうか。この言葉を聞いて、「それだったら大丈夫、自分の力でできる」と思えるなら、それでいいかもしれません。でもそれができない自分をよく知っている。いや、それができないから、わたしたちはこうして集っているのではないでしょうか。

 洗礼堅信式の式文の中に、誓約というところがあります。そこで志願者は司式者からの問いに対し、約束を誓います。司式者はこんなことを聞きます。「あなたはすべての悪の力と戦いますか」、「すべての罪深い思いと言葉とおこないを退けますか」、「イエス・キリストを救い主として受け入れますか」、「イエス・キリストにまったく寄り頼みますか」。そして「キリストを主と信じて従い、生涯その模範に倣うことを約束しますか」。

 それぞれの問いかけに対して、志願者は答えていきます。教会問答からいくと、このように答えるのが正しいでしょう。「はい、できます」、「はい、やります」。そう答えることができる人であれば、もしかしたらイエス様は必要ないのかもしれません。だって、自分の力だけでやれるのですから。洗礼堅信式の中で、では志願者はどのように答えるのでしょう。

 「神の助けによって」、そのように答えるのです。「神の助けによって戦います」、「神の助けによって退けます」、「神の助けによって受け入れます」、「神の助けによって寄り頼みます」、「神の助けによって努めます」と、すべてにおいて神さまの助けを求めていくのです。自分の力だけではどうしようもないことを知り、神さまの助け、つまりイエス様と共に生涯を歩んで行こうと誓う。 それが新しい約束における洗礼なのです。洗礼を受けるためにどうしなければいけないか、ではなく、洗礼を受けたわたしたちはこれからどう生きていくか、そのことが大事なのです。洗礼はゴールではなくスタートなのです。

 洗礼者ヨハネは「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねる群衆に対して、このように答えました。「下着を二枚持っている者は、一枚も持たない者に分けてやれ。食べ物を持っている者も同じようにせよ」。

 わたしたちは神さまの前に認められようと、これらのことをおこなうのではありません。そんなことは、神さまは喜ばれません。そうではなくイエス様を受け入れ、共に歩む中で神さまの愛に気づかされ、周りの人にもその愛を伝えたい。そうなったときに、自分には何ができるのか。自分はイエス様と共にどんなことをさせてもらえるのか。祈り求めていく。そのような生き方に変えられるよう、神さまに願っていきましょう。