2021年7月18日<聖霊降臨後第8主日(特定11)>説教

「奇跡をおこなう人」

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マルコによる福音書6章30~44節

 今日の福音書の物語は、5000人に食べ物を与えるというものです。イエス様が5000人という大勢の人に対して、たった5つのパンと2匹の魚を分け与えた。するとすべての人たちが満たされたといういわゆる奇跡物語です。

 さて、今日の物語を改めて見ていきましょう。先週わたしたちに与えられた聖書の箇所は、12人が近くの町や村に出かけていき、神さまの愛を伝えに行くという場面でした。説教の中で、わたしたちもその12人の一人ひとりだというお話をいたしました。聖書にはそのあとに、洗礼者ヨハネの話が書かれていますが、今日の冒頭の、「使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」という一文は、まさしく先週の続きであると考えることができます。

 「使徒たちは」と新共同訳聖書で訳されている言葉は、そのままだといわゆる12使徒を思い浮かべてしまいますが、ここでの語は正しくは「遣わされた者」という意味です。ですからここも、まさしくわたしたちのことを指しています。ですから今から語られる言葉を、ぜひその場にいるのだと想像しながら聞いてみてください。

 さて、イエス様に遣わされた人たち、もうここから先は「わたしたち」としましょう。わたしたちはイエス様に、「こんなことありました」、「こんなこと伝えました」ってめいめい伝えていきます。イエス様、きっとニコニコしながら聞いていたことでしょう。そして言われるんですね。「あなたがただけで休みなさい」と。うれしい言葉です。それも人里離れたところに行くようにと指示をされます。

 ゆっくり昼寝でもしようか、それとも日記でもつけようか。いやいや、まず飯屋に行こう。仲間通しでうれしかったことや感動したことを報告し合うのもいいですね。きっと小舟の上には今までの疲れがうそみたいに、笑い声が響き合っていたことでしょう。

 ところが岸についてみると、すでに群衆が先に着いていてイエス様を待ち構えていました。彼らは「飼い主のいない羊」のような状態、様々な困難に打ちひしがれ、オアシスを求めてさまよい歩き、明日を生きる意欲さえつきそうになっていました。

 そんな人々を、イエス様はほおっておかれるはずはありません。群衆を深く憐れみ、ゆっくりと神さまの愛を伝え始めるイエス様を、わたしたちは止めることなどできません。自分たちより弱くされ、小さくされている人たちに語り続けるイエス様のその声を、一緒になって聞いていたに違いありません。

 ただ、ものには限度というものがあります。ただでさえ休む気満々でやってきたこの場所で、延々とイエス様のお話が続いていく。それも1~2時間だったら我慢できるけど、日も暮れそうになっているのです。

 一人がたまりかねて言います。「群衆を解散させてください。そしたら自分たちで何か食べる物を買いに行くでしょう」。うまいこと言いますね。多分僕も同じように言います。本心は、「早く群衆から僕たちを解放してくれ」ということです。でもそれを正直に言ってしまうと怒られるかもしれないから、「群衆がかわいそうだから」と群衆のせいにするのです。

 そのときにイエス様が言われた言葉、これが今日のポイントです。この言葉を聞くために、わたしたちは今日、この場に集められたのです。その言葉とは何か。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」、この命令の言葉が、今日の福音なのです。

 さあ、あなたはどう答えますか。5000人もの人を前にして、「あなたが彼らを養いなさい」とイエス様に命じられたなら、どうしますか。そんな大金ありません、そんな食料持ってきていません。そう答えるでしょうか。

 少し話は変わりますが、わたしは牧師として、信徒の方のご家庭に訪問させていただくことがあります。その中には教会から足が遠のいておられる方や、物理的に教会に来ることが困難な方もおられます。

 その方々との会話の中で、こういうことを言われる方がおられます。「何もできずにすいません」って。多分以前やっていたような奉仕ができないとか、そういう意味で言われているのだと思います。そのたびにわたしはこう言います。「いえいえ、どうぞこれからもお祈りしてください。それがとっても大切なことです」と。

 別に慰めようとして、そんなことを言っているのではありません。心から祈ってほしい、そう思うからです。「わたしのお祈りなんて」と思うかもしれません。いやいや、わたしたちはこう祈るはずです。「イエス様のみ名によって」と。

 わたしたちの祈りの根っこには、イエス様がいてくださる。わたしたちには何の力もない、それはそうかもしれません。けれどもイエス様の思いがそこにあふれているならば、わたしたちの祈りは大きな力を持つのです。決して「わたしのお祈りなんて」なんて思わなくてよいのです。

 イエス様は「あなたが彼らを養いなさい」とわたしたちに命じられます。そしてどう養うのか、目の前でおこなわれました。パン5つと魚2匹というわずかな糧が祝福され、5000人みんなを養うことができたのです。

 でも、勘違いしないでください。旧約聖書の出エジプト記には、空からマナというパンが毎日降って来て、人々を養ったという記事があります。それは神さまの奇跡です。一方的に人々に与えられた恵みです。

 しかし今回の物語は違うのです。イエス様はその糧を、ご自分で配るわけでも空から降らせるわけでもありませんでした。弟子たちを介して、つまりわたしたちの手を通して配られたのです。

 この物語は奇跡物語です。しかしこれは、神さまだけの、イエス様だけの奇跡物語ではありません。わたしたちを巻き込んだ、わたしたちと共におこなわれる奇跡物語なのです。

 神さまの恵みが、イエス様の福音が、わたしたちの手を通してたくさんの人に伝えられていく。そして分かち合うことができる。わたしたち一人ひとりの手にあるときにはちっぽけなものでも、イエス様が大きく用いてくださるのです。人間の心では理解できないことかもしれません。でも神さまはそれを可能にしてくださいます。

 イエス様は「あなたが彼らを養いなさい」とわたしたちに命じられます。「はい、イエス様、どうぞわたしを用いてください」、その答えを、イエス様は待っておられます。