2020年7月26日<聖霊降臨後第8主日>説教

「天の国って?」

司祭エレナ古本みさ

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マタイによる福音書13章31~33、44~49節a

 ある日イエスが、湖のほとりに静かに座っておられると、大勢の群衆がそばに集まってきました。「もっと話を聞かせてください!」と。みるみるうちに人々に取り囲まれたイエスは、急いで湖へ走り、そこにある小舟に飛び乗ると、少し漕ぎ出して岸辺から離れ、腰を下ろされました。群衆は皆岸辺に立っています。間に10メートルほどもあったでしょうか。イエスはその舟の上から語られたのです、大きな大きな声で。その日語られたのは、「天の国」についてでした。天の国、同じ意味でも、マルコとルカによる福音書では「神の国」と呼ばれていますが、それは神の支配を意味します。

 当時のイスラエルは政治的な不安を抱え、経済的貧困に苦しんでいました。日ごとの糧が十分に与えられず、宗教が大切にする規則を守ることができなければ罪びとのレッテルを貼られ、特定の病気になれば汚れているとされ、社会的に疎外された人々が大勢いたのです。そんな人々の前に突如としてあらわれたのがナザレのイエスでした。社会的底辺に生きる人たちとともに歩み、神の力をもって病気を癒し、悪霊を追い出し、「大丈夫、あなたは愛されている。希望を持ちなさい。神はあなたとともにいる」と、学校に行ったこともなく読み書きもできない人々にわかる言葉で、福音を語ったのです。分かりやすい言葉を使っただけではありませんでした。人々が日常生活から容易に想像し、思い起こすことのできるエピソードを使った「たとえ」を用いて語られたのです。声も大きく、話術に優れ、身振り手振りも交えながらユーモアたっぷりに語られたことでしょう。それを聞く人々の胸は高鳴り、一言も聞き漏らすまいと目と耳を大きく広げ、聞き入ったにちがいありません。時に歓声があがったり、笑い声も起きたことでしょう。

 「今日はみんなが待ち焦がれている天の国について、話そう。天の国は、あのちっぽけなからし種に似ているんだ。種の粒はあんなに小っちゃいのに、畑に蒔かれたらものすごく大きくなって、鳥が枝に巣を作るほどになる。あるいは、パン種に似ているとも言える。パンを作るときに、粉の中に混ぜるよね。その時は分からないのに、混ぜて捏ねてしばらくおいておくととぷーっと何倍にも膨らむじゃないか。天の国ってそういうものなんだ。」

 人々は、目を丸くしながらいろいろ想像したことでしょう。なんだろう? そのからし種やパン種が意味してるのものは? ほんの小さなものでもそれを差し出すことによって大きく大きくなるって一体... ある人は思いました。「それは、今もうほとんど消えかかっているわたしの心の中の希望の灯かもしれない。消えちゃわないように、しっかりと灯し続けよう。きっといつかこの暗闇が光で覆われるときが来る。きっと来る。」 また別の人は思いました。「そのちっちゃなものは、自分に神様のためにできることかもしれない。ぼくは何の能力もないし、何をやっても人と比べて劣るし、価値のない人間だ。でも、きっとぼくにも何かこの世界に役立つものを神様は与えてくれているはず。明日から何か神様に喜ばれることをやってみよう。そのちっちゃなことを用いて、神様はきっとこの世界に大きな素晴らしいものを生み出してくれる。」

 さまざまな思いが頭をかけめぐっている間に、次のたとえが始まりました。「天の国はまたこのようなものだ。畑に宝が隠されている。見つけた人は、それを誰にも言わず隠しておいて、大喜びしながら帰り、自分の持ち物をすべて売り払って、その畑を買う。また、このようにも言えるだろう。商人が良い真珠を探している。たった一粒だけど、高価な真珠を見つけたら、彼はお店の物を全部売り払って、それを買う。天の国って、そういうものなんだ。」

 人々は思ったことでしょう。「へぇーっ、天の国ってそんなに高価で尊いものなのか」と。「いいなぁ。そんな素晴らしいもの、見つけたいなぁ。自分にとって、すべてのものを売り払っても手に入れたいものって何だろう?」ある母親は言います。「わたしにとっては、子どもたちが何よりの宝。すべての財産を失っても、あるいは自分自身の命に代えても、子どもを守るわ。間違いない。もしかして、神様ってわたしのこともそんな風に思ってくださっているのかしら...」別の人は言います。「だれも苦しまず、悲しまず、争わず、愛し合いながらともに生きる平和な世界。それが何より尊いんじゃないか?」「そうか、それが天の国なのかもしれない。みんなでそれを探せたらいいよね。」いつの間にか、そんなディスカッションが始まったのでした。

 そのうちにまた、次のたとえが始まります。「天の国は次のようなものでもある。漁師が網を湖に降ろすと、いろいろな魚が集まるよね。色とりどり。小さいのも大きいのも、中には毒を持っているやつもいれば、食べる身がないような魚もいる。でもそれらは全部網ですくい上げられる。網がいっぱいになったら、人びとは岸に引き上げ、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。」

 「おれたちが毎日やっていることだ。」漁師たちは口々に言いました。「そうそう、最初から市場で売れるいい魚ばっかり網にかかってくれると苦労せんのに、いらないやつも入ってくる。選り分けるのがまた面倒なんだ。」「でもねぇ、市場では売れないけど、面白い魚が入っているときもあるのよ。こないだ唐揚げにしたら絶品だったわ。」「ああ、昨日は見たことのないザリガニみたいなやつが入っていたから、子どもらにあげたよ。大喜びで名前を付けて、今や家族の一員だよ。」笑いながら、ふと立ち止まり、彼らは考えました。「それじゃあ、それが天の国ってどういうことなんだ?」「そりゃあ、神様が世の終わりに、おれたち人間を全員、いいやつと悪いやつに分けるって話だろ?」「でもさー、神様の目から見た、だれがいいやつで悪いやつかっていうのは、おれたちには分からないよな。売れないけど家で唐揚げにしたら美味しいやつとか、子どものペットになるのとかもいるんだから。」「確かに。だから、世の終わりがまだ来ていない今のうちは、自分たちで人を選別したらいけないってことじゃないだろうか」「そうか!じゃ、おれらはいつも神殿のお偉いさん方に馬鹿にされ、価値のないやつのように言われているけど、神様はそんな風に見ておられないかもしれないってことか。」「きっと、そうよ。それが天の国なのよ。世の終わりに、神様に投げ捨てられる魚にならないように、イエス様がいつも言われるように、神を愛し、人を愛する人になりましょうよ。」

 人々はこんな風に話しながら、帰路に就きました。天の国、それは、一言で語ることのできるものでないこと、でもわたしたちの社会の常識をひっくり返すような、びっくり箱のような、サプライズが詰まったものであり、それを見出す喜びを主イエスは、様々なたとえを使って教えてくださったのです。これらのたとえから、みなさんはどのような天の国を思い浮かべられたでしょうか。神様はこの天の国をわたしたちと力を合わせて、大きく大きくしたいと考えておられます。主の祈りの中の「御国が来ますように」この一文を大切に心に留めながら、いつもワクワクした気持ちと希望を忘れずに、神様と共に神の国の実現を夢見てまいりましょう。