「自分自身の中に戻る」
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ルカによる福音書15章11~32節
イースターまで、あと3週間となりました。今日の礼拝後には、教会内の大掃除も行います。春を迎える準備です。イースターといえば復活、そして春の到来。最近はまた寒さが戻ってきましたが、気温も徐々に上がり、桜の開花や春服に心躍る季節ですね。そしてこのイースター、私たちの教会では、赤ちゃんを含む4名の方が洗礼を受けられます。なんと喜ばしいことでしょう。今日の使徒書、コリントの信徒への手紙IIの5章17節には、こうあります。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者です。」私たちは、神さまの子どもとして新しく生まれ変わるのです。みんなで心から喜びを分かち合い、お祝いしましょう。
しかし、その喜びの前に、今一度立ち止まりたいのです。イースターの喜びは、イエス様の十字架の上に築かれたものだからです。あの十字架が、私たち一人ひとりにとってどんな意味を持つのか。なぜそこまで重要なのか。復活を待ち望みつつも、その意味を深く味わいたいと思います。
この教会には、ありがたいことに毎週のように新しい方々が訪れてくださいます。今日初めて来られた方もいらっしゃるかもしれません。きっかけは様々でしょう。重要文化財の礼拝堂を見に来た方、学校の課題で仕方なく来た生徒さん。どんな理由であれ、皆さんに共通していることが一つあります。それは、「今ここにいる」という事実です。長年通い続けている方も、初めて来られた方も、皆、「今、いるべき場所」に導かれてここにいるのです。「いや、居心地悪いんだけど……」と思われた方がいれば、それは私たちの努力不足です。ぜひ、受付で渡された紙に気になった点をご自由にお書きください。「床が冷たい」「音楽が合わない」「隣の人が怖い」など、どんなことでも構いません。私たちは、誰もが安心して過ごせる場所を目指しています。けれど私が言いたい「いるべき場所」というのは、そうした快適さの話ではありません。
ここは、私たちが本来いるべき場所。神さまの家です。建物のことではなく、神さまのもとに帰ってきたと感じられる場所。今日の使徒書でパウロが語るように、「キリストを通して神と和解させていただく」その時と場所。それが教会の礼拝です。多くの場合、私たちは神さまのもとへ戻る大切さに、普段は気づけません。でも、今ここにいるという事実自体が、「気づかされた」というしるしなのです。たとえ、自分では気づいていなかったとしても。
「今日、教会に行こう」と思ってここへ来た――その決断の裏には、神さまの深い愛と招きがあります。私たち一人ひとりを動かしたのは、神さまの思いなのです。この思いに応えて、神のもとへ帰る。それが「悔い改め」です。この大斎節、何度も聞くこの言葉の本質は、神のもとへの「帰還」なのです。
今日の福音書は、まさにその「帰還」の物語――「放蕩息子のたとえ」でした。何度も聞いたことのあるお話かもしれません。若い弟は、父から財産の分け前をもらって家を出ます。自由を満喫し、放蕩の限りを尽くします。けれど、すべてを失い、飢饉が来て、彼は豚の世話をする仕事に就きました。ユダヤ人にとって、最も忌避されるような仕事です。そんな極限状態の中で、彼は「我に返る」のです。
ギリシア語では「自分自身の中に戻る」という意味。彼は、自分の本来の姿と、あるべき場所を思い出しました。そしてこう決心します。「父のもとへ帰ろう。雇人としてでいいから。」
彼は帰ります。父親のもとへ。そして父は、彼を見つけると走り寄り、抱きしめ、喜びます。息子の言い訳も謝罪もほとんど聞かずに、ただ「おかえり!」と迎えたのです。この父の姿は、神さまそのものです。常識では測れないほどの愛。見返りを求めない愛。人間の尺度では“異常”とも思えるほどの広くて、長くて、高くて、深い愛。
しかし、その愛を素直に受け入れられない人物がいます。兄です。真面目に生き、父に仕えてきた兄は、弟への歓待を見て怒ります。「なんであんな奴が、歓迎されるんだ?」と。私たちも、彼の気持ちは分かります。でも、思い出してほしいのです。私たちはみんな、まず弟のような存在だったことを。神さまから離れ、自分勝手に生きていた。そんな私たちを、神さまは「おかえり」と迎えてくださったのです。
この「我に返る」経験を、どうして私たちはできるのでしょうか。私は、その一つに「祈りの力」があると信じています。たとえば、放蕩息子の物語には「母親」が登場しません。でも、もしそこに母親がいたなら、きっと彼女は祈っていたはずです。泣きながら、日々、息子の帰還を願って祈っていたのではないでしょうか。私たちも、今、心を合わせて祈りたいと思います。今どこかで迷っている、私たちの大切な人が、そして名前も知らない誰かが、いつか「我に返り」、神さまのもとへ戻ってこられるように。
「我に返った」その後に続く道――それは、イエス様が十字架で命をかけて開いてくださった道です。神との間にあった深い溝に、橋を架けてくださいました。赦しへの道、和解への道、そして、本来の自分自身へ戻る道。今日、私たちは神の家に招かれました。さあ、大きな声で「ただいま」と言いましょう。神さまは、今日も両手を広げて「おかえり」と迎えてくださっています。