2023年10月8日<聖霊降臨後第19主日(特定22)>説教

「神の国はだれのもの?」

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 マタイによる福音書21章33~43節

 聖書には、ぶどうとぶどう畑に関する物語やたとえ話が多く登場します。聖書のぶどう園の物語に聞くときに、まず押さえておきたいことがあります。それは聖書では、そこに出てくるぶどう園自体が大きな意味を持つということです。例えば工場で働いたり、小麦を栽培したりするのとは少し違うのです。まずイスラエルの民はぶどうにたとえられ、またその実りは神さまからの恵みと考える。さらにぶどう園とは、神の国を指します。神さまの愛の支配の中で、神さまのご用をおこなうことができる場所、それがぶどう園なのです。さてそのように考えていくときに、この物語はどのような意味を持つのでしょうか。わたしたちに対してこの物語は、どんなメッセージを伝えてくれるのでしょうか。ご一緒に考えていきたいと思います。

 この物語にまず登場するのは、主人です。彼はぶどう園を作り、それを農夫たちに貸して旅に出ます。そして収穫のとき、ぶどう園の農夫たちは何を思ったか、その収穫を渡すのを拒否しました。主人が送った僕たちは捕まり、一人は袋叩きにされ、一人は殺され、さらにもう一人も石で打ち殺されました。しかし主人は、ほかの多くの僕たちも送ります。けれども、前と同じ目に遭います。最後に主人は、自分の息子だったら敬ってくれるだろうと、息子を送ります。けれども農夫たちはその息子を捕まえ、ぶどう園の外に放り出して殺してしまったということです。

 普通、そんな聞き分けのない農夫たちのところに、大事な息子を送るなんてありえないだろう、そう思います。僕たちを次々と殺していく農夫たちですから、息子であろうと容赦しないだろうというのは、誰でも思うことです。しかしこの主人は違いました。そんな中にも、大事な息子を遣わしたのです。

 さて最初の方で、ぶどう園の物語には意味があり、その意味を頭に入れながら読む必要があるとお話ししました。しかし逆に、あまりにもその意味にとらわれ過ぎると、大切なものが見えなくなることもあります。どういうことかというと、この物語の背景を考え過ぎて、自分とは別の場所、違う時代の物語としか捉えられないということです。主人は神さま、農夫たちはイスラエルの人々、収穫を取りに来て殺されたのは旧約の預言者、そして最後に殺された息子はイエス様。そのようにこの物語の登場人物を当てはめていくと、スッキリ物語が頭に入ります。「そうか、イスラエルの人たち、特に宗教指導者のような人たちは旧約聖書を見ても、神さまの言うことを正しくは理解していなかったもんな。預言者の言うことも聞かず殺したこともあったし、何よりイエス様を十字架につけたしな」。そうなるとこの福音書の言葉は、当時のユダヤ人、ファリサイ派、律法学者たちへの警告であり、自分たちは関係のない物語となってしまうのです。それどころか、今日の福音書の最後にある「神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」という中の、「ふさわしい実を結ぶ民族」は自分たちだと思ってしまう。

 果たしてそうでしょうか。神さまはわたしたちを「ふさわしい実を結ぶ民族」だともろ手を挙げて歓迎され、喜んでおられるのでしょうか。もう少し考えてみたいと思います。

 今日のこの福音書を心に留めていく中で、二つの聖歌の歌詞が頭の中をグルグルと回っていました。一つは322番、「すべてのものは 神の宝」、そしてもう一つは323番、「この世はみな 神の世界」です。わたしたちは神さまによってたくさんの恵みを与えられながら、生かされています。ところがそれが少しでも奪われることになったら、「何で?」と大声を上げる。神さまに食ってかかる。そういうことはないでしょうか。毎日真面目に働いて来たのに、突然リストラされてしまった。ずっと健康が与えられていたのに、突然病気になってしまった。いつまでも恵みが与え続けられると思っていたのに、そうではない。それどころか苦しみが与えられ、あらゆる物が奪われていくとき、わたしたちは困惑します。それはダメです、聞いていませんと叫びます。

 お葬式のときに、いつもこの聖句が読まれます。

 「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」。ヨブ記の言葉です。

 この「主は奪う」という言葉の響きが、ときにわたしたちの心を苦しくさせてしまいます。でも考えてみれば、もともとは神さまのものだった。わたしたちは何も持たないでこの世に来た。そして神さまに導かれ、ぶどう園で働くのです。だからそもそも、すべてのものは神さまの宝、この世はみな神さまの世界。すべて与えられた恵みの中に自分たちは生かされているのです。ぶどう園という神さまの働きに参与し、神さまのご用のために遣わされていることは、ただただ感謝なことであったはずです。

 ところがいつの間にか、そのぶどう園には自分の力でやって来た、ぶどうは自分の力だけで得た物だと勘違いしてしまうのです。神さまが用意し、備えてくださったぶどう畑で働き、その恵みを存分にいただいてきた。しかし、それは全部自分のもの。自分の手柄、財産として、ギュッと握り続けていたいのです。

 ただここで、この主人は、ぶどうの収穫を農夫たちから奪うことが目的だったのだろうかと考えてみたいと思います。きっと主人は僕を遣わし、収穫を喜び、農夫にはふさわしい賃金を支払い、これからも一緒にここで働いておくれと告げたかったのだと思います。そうでなければ、こんな悠長に僕を送り続けたりはしないでしょう。一人でも殺されたら、いや、一人でも追い返された時点で、兵を送ってぶどう園ごと焼き尽くしたに違いありません。でも主人は、何とかして一緒に働きたかった。だから愛する息子までも、ぶどう園に遣わしたのです。殺されるのが薄々分かっていても、そうしたのです。

 同じように神さまは、わたしたちから収穫を奪うことを目的としているのではありません。わたしたちが奉仕の業を喜んでささげることができるように、わたしたちが喜びをもって歩むことができるように、神さまはわたしたちの元にも僕を遣わされるのです。イエス様を与えてくださるのです。それが神さまの愛なのです。わたしたちに対する思いなのです。わたしたちは何度となく、神さまを払いのけ、神さまからいただいた恵みを自分の力で得た物だと勘違いします。イエス様がわたしたちの元に遣わされても、それがどうしたと言わんばかり。なかなか神さまの愛に気づくことができません。

 それでも神さまは、わたしたちが得る収穫を心待ちにし、わたしたちが喜びをもってささげることをずっと待ち続けておられます。そのことをいつも心に留め、歩んでまいりましょう。

 そしてわたしたちがまかされたぶどう園に、神さまの恵みと愛がたくさんあふれるように、わたしたちそれぞれ遣わされた場所でなすべきことをしてまいりましょう。