「開かれた食卓」
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ヨハネによる福音書6章53~59節
今週の福音書はヨハネ6章53節からでした。先週は51節で終わっていましたので、52節は飛ばされています。この52節に何が書かれているのか、お読みします。
それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
みなさんの中には、まだ洗礼を受けておられない方もおられます。また幼児洗礼を受けて、物心ついたときにはすでに教会に行っていたという方もおられます。一大決心をして、教会の門をくぐったという方もおられるでしょう。初めて、聖餐式の様子を見たときのことを覚えておられるでしょうか。聖公会ではみなさん前に来て陪餐を受けますので、その様子はなかなか覗き込むことはできません。
ただプロテスタント教会では牧師が会衆席に配りにいくので、何が渡されているのかわかります。わたしが以前行っている教会では、食パンを切った物が配られていました。でも食べる人の表情を見ると、ただのパンには見えませんでした。
イエス様は今日の箇所で、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者」や「わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物」という言葉を語ります。この言葉はなかなか衝撃的な物です。わたしたちもどうでしょうか。「これはわたしの肉」、「これはわたしの血」という言葉や、「あなたのために与えられた主イエス・キリストの体」「あなたのために流された主イエス・キリストの血」という言葉を聞いて、ギョッとした覚えはないでしょうか。
まだキリスト教がローマでも公認されていなかったころ、この「主の陪餐」をしている初代教会の人たちに対して、「あの人たちは人肉を食べ、人の血を飲んでいる」といううわさが出まわったそうです。きっと聖餐式の中の言葉だけを聞いたのでしょう。わたしたちは聖餐式が何かを知っているから違和感もなく、「アーメン」といただいていますが、イエス様の言葉、「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む」というその言葉をきちんと理解しないと、よくわからないことになってしまいます。
イエス様の一連の言葉を聞いてユダヤ人は「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始め、イエス様の言葉を受け入れることができずに、イエス様から離れて行きました。ご自分から離れていく人の姿を見たときに、イエス様は何を思われたのでしょうか。
この前、ある大学の先生と学生さんたちが礼拝堂の見学をしに来られました。学生だけで30人以上、そしてその半分は日本の学生、もう半分はインドネシアから来られた人たちでした。インドネシアは人口の87%がイスラム教徒です。しかしキリスト教徒も10%弱おられるそうです。いわゆる国教、国の宗教は定められておらず、また改宗も比較的自由にできるということです。先日来た人たちは、インドネシアのキリスト教神学校の学生さんたちでした。ですのでかなり熱心で、ここはどのような教派なのか、緑の祭色にはどんな意味があり他にはどんな色があるのか、座布団が紫なのは何か意味があるのか、などなど、隣にいる日本人の学生を通して、たくさんの質問をしてくれました。
その質問に一つ一つ答えながら、そして引率で来られた先生に英語に訳してもらいながら、あわせてこんな話をしました。それはこの礼拝堂の祭壇の後ろに掛けられているタペストリーについてです。これは教会の創立100周年の記念に、パイプオルガンと共にささげられたものです。会衆席からは一枚の布のように見えるこのタペストリーですが、近くで見てみるとパイプに布を巻きつけて、それがたくさん合わさって出来ていることに気づかされます。しかもそのパイプも太さはまちまちです。
隣どうしにある2本のパイプを見てみても、それぞれが違う色で構成されています。でもこうやって一つの作品として遠くから見たときには、そのような一つ一つの色や形状の違いなど気にならなくなるわけです。
その学生さんたちですが、日本人もインドネシア人もいました。性別も、年齢も、宗教も、育った環境も、考え方も、様々な違いがありました。でもこの礼拝堂の座席に座り、話を聞いていました。その姿を見ると神さまにとって、わたしたちの小さな違いなんてどうでもいいのではないか、そう思うわけです。
その違いを大きなみ腕で受けとめ、そしてその結びつきによって大きな世界、神の国を作り上げていく。これこそが神さまのみ心であり、イエス様がわたしたちの間に遣わされた意味なのだと思います。同じ色、同じ種類の布を、そして同じ民族、同じ考え方の人だけを受け入れるために、イエス様は来られたのではありません。ご自分の肉と血をすべての人に与えるために、イエス様は十字架へと向かわれました。肉と血をいただく、つまりイエス様を受け入れるすべての人が神さまの愛の中に生かされるように、十字架につけられたのです。
「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」、そう吐き捨てながら離れていくユダヤ人のためにも、十字架を前に逃げ出してしまった弟子たちのためにも、イエス様の十字架から2000年経ったこの場所で食卓につく人たちのためにも、そしてそれだけではない、今教会の外にいるすべての人のためにも、その身をささげられたのです。
わたしたちは聖餐式を、どのような思いで受けているでしょうか。これは自分たちだけに与えられた特権ではないんです。神さまはそうではなく、すべての人たちと食卓を分かち合うようにと、わたしたちに求めているのです。だからわたしたちは、この礼拝を開かれたものにしていかなければなりません。あなたはここにふさわしくないとか、静かにできないならここから出て行きなさいとか、そういうことはあってはならないことだと、そう思うのです。なぜなら、わたしたちが大事にしている主の陪餐は、喜びの宴だからです。神さまが招いてくださった祝宴だからです。そしてその門は、すべての人に開かれている。そのことをわたしたちは意識しながら、イエス様を受け入れていきましょう。「このパンを食べる者は永遠に生きる」と、イエス様は語られます。神さまにいつまでも生かされ、たとえ死によって肉体が滅んだとしても、神さまの元で永遠に憩う。それが神さまのみ心です。そのためにイエス様はおられるのです。そのことを心に留め、わたしたちは歩んでまいりましょう。そしてこの喜びの宴を、一人でも多くの人たちと分かち合うことができますように、遣わされた場所でわたしたちもまた神さまの愛を伝えることができればと思います。
今日もわたしたちは、イエス様の体と血をいただきます。この養いによって生かされていることを、感謝したいと思います。