2025年9月28日<聖霊降臨後第16主日>説教

「脅しではなく、愛によって」

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 ルカによる福音書16章19~31節

 昔、他教派の礼拝に出席する機会がありました。その教会には若い人たちや子どもたちも大勢いて、とても賑やかで、本当に羨ましく感じる素晴らしい教会でした。午後から教会学校の先生たちのための講座があったのでそれにも参加させてもらいました。楽しい歌やダンス、ゲームなどを通じて神様の愛を知り、聖書の教えを学んでいきます。あー、これは聖公会でも取り入れられたらいいなーと思うものがたくさんあって、来てよかった!と思ったのですが、その後に聞いた、牧師の話に唖然としてしまったのです。子どもたちに語るメッセージの模範例として話されたのが、「イエス様を信じないと地獄に行き、炎の中で苦しむ。だから友達を教会に連れてこよう」という話でした。私は思わず「子どもにそんなふうに地獄を語るのは怖がらせすぎでは?」と尋ねました。すると牧師は「地獄を語らずに十字架の救いは伝わりますか?」と返してきました。

 皆さんはどう思われるでしょうか。

 今朝の福音書は、数少ない地獄(ここでは陰府と記されている)の描写がある箇所です。毎日最高級の服を着てぜいたくに遊び暮らしていた金持ちは死んだ後、炎の中でもだえ苦しみ、そこでどんなに助けを求めようとも救われることはありません。その一方で、その金持ちの家の前で日々の糧もままならず横たわっていた貧しいラザロという人は、死後、天国でイスラエル民族の父アブラハムとともに宴会をしていたという、イエス様のたとえ話です。シンプルに読めば「よい子でなければ地獄」という脅しのようにも受け取れます。しかしイエスが語られた意図はそこではありません。これは、神に仕えると称しつつ隣人に無関心であったファリサイ派への警告なのです。

 たとえ話の後半で、核心的メッセージが語られます。この金持ちは、いったん地獄に来てしまうと二度と救われることはないと悟ったときに、それではせめて今生きている自分の兄弟たちが自分と同じ目に遭わないように、死後どうなるか伝えてやってくれと天国にいるアブラハムに懇願します。すると、彼は言うのです。「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」と。モーセと預言者とは、聖書を意味します。聖書の言葉に耳を傾けないのであれば、いくら死んだ人が幽霊となって出てきて、地獄の恐ろしさを伝えたところで聞きやしないだろうと言うのです。実は、これこそが、キリスト教の教えなのです。

 聖書に書かれている一番大切なメッセージは、地獄に行きたくなければ、こういう生き方をしてはいけない、あるいは、救われるためにはこういう生き方をしなさいということではありません。聖書が語る中心は、裁きではなく、神の愛です。神さまは、こんなにも私たち一人ひとりを愛してくださっている。こんなに心の醜い私たち一人ひとりであっても、神さまの目にはどれほど値高く、尊いものであるか、そのことが示されているのです。だから、私たちも目の前にいる人を自分のように愛しなさいと教えられます。

 地獄に行かないためにこれはやめておこう、救われるためにこれをしようというような生き方はおそらく長続きはしません。それに、そういう生き方は想像するだけでものすごくしんどいものです。それは、そこに喜びがないからです。聖書を通してイエス様に出会い、神さまの愛を感じたならば、私たちは聖霊の働きによって、自分のためにではなく、神と人のために生きたいと背中を押されるようになります。自分に与えられた恵みや賜物を他者と分かち合う、喜ぶ人とともに喜び、泣く人とともに泣くという生き方に真の喜びを感じることができるようになるのです。

 でも、ここでもう一つ、大切なことは、したいのにできない自分を受け入れること、許すことです。貧しい人を助けたい、一人ぼっちの人を支え続けたい、そう心から願っても、できないときがあります。自分のキャパを超えてしまったり、払う犠牲が喜びの域を超えてしまったりしたらもうそれはアウトです。それはいつの間にか人のためと思っていたことが自分のためになってしまっているサインかもしれません。

 今年の宣教ミュージカルはマザーテレサです。共演するシスター・アンナは病で働けなくなり泣きますが、マザーは「祈りで共に仕えることができる」と励まします。動けなくても祈ることはできる――これは私たちにも与えられた道です。

 できないと感じたとき、自分の力不足を嘆くのではなく、聖霊の力を信じましょう。そして祈るのです。それこそが神様が求めておられることなのです。

 そして最後に、神様のため、人のために行動する、あるいは祈ることの原動力である神の愛を感じなくさせてしまうもの、見えなくさせてしまうものが、この世の富です。お金です。そのことをルカは何度も何度も語ります。誤解のないように言うと、お金を持つことは決して悪いことではありません。でも、お金に執着してしまうとどうしても神さまに背を向けてしまうことになります。知らない間にお金が神さまになってしまい、それは偶像礼拝と呼ばれます。

 先週の福音書「不正な管理人のたとえ」にあった通り、私たちは「神と富とに仕えることはできない」のです。私たちの目にお金が見えなくなるくらいまで、神さまの愛を感じることができるように、聖書のみ言葉に耳を傾け続けていきましょう。私たち一人ひとりの心の目が開かれ、門の前に倒れているラザロに気づくことができますように。そして、手を差し伸べる勇気と力と優しさ、またその人のために祈る信仰が与えられますように、祈り続けていきたいと思います。