「狭い戸口」
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ルカによる福音書13章22~35節
今日の箇所はルカによる福音書13章です。イエス様がエルサレムに入るのは19章になります。すでにエルサレムに向けて歩みを進めてはおりますが、実際にエルサレム入りをするのはもう少し先、しかしすでに2回、ご自分が受難されることを予告されていました。弟子たちや人々の心の中は、不安で一杯だったでしょう。自分たちはこのままついていって、大丈夫なのだろうか。救われるのか。そのような思いの中で、このような問いがなされました。「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」。その問いに対してイエス様が語られた言葉が、「狭い戸口から入るように努めなさい」というものだったのです。
イエス様の周りにいたのはユダヤ人の人たちでした。彼らはこう考えていました。「自分たちは神さまに選ばれた民だ」と。自分たちにこそ救いは訪れ、自分たちこそ神さまのみ前に立てると思っていました。また後半に出てくるのは、ファリサイ派の人たちです。彼らはイエス様に、「ここを立ち去ってください」と警告します。エルサレムに向かおうとしているイエス様の歩みを止めようとしていたのです。ファリサイ派の彼らは、聖書の中では悪役のように描かれます。しかし実際はどうだったのかというと、彼らは真面目そのものでした。それも“超”がつくほど真面目でした。決まった時間のお祈りやささげ物、また安息日などの律法もきちんと守っていました。
そして彼らもまた、自分たちにこそ救いは訪れ、自分たちこそ神さまのみ前に立てると思っていました。そのユダヤ人やファリサイ派の人々を象徴するものこそ、エルサレム神殿だったのです。神殿に行き、お祈りをささげ、真面目に生きて来た。しかしユダヤ人の人々に、ファリサイ派の人々に、そしてエルサレムに対して語られたイエス様の言葉は、どれもきついものばかりでした。これがまったく祈ることもせず、人の物を奪い、人の心を傷つけ、神さまのことを無視して歩んでいたような人に対して語られていたのであれば、わたしたちはこう思うはずです。「わたしたちはそうならないようにしよう」と。
しかし今日の箇所で、イエス様から糾弾されている人たちは、決してダメな人たちではなかった。どちらかというと神さまの前に正しくあろうとした人たちです。もっと言うと、今日ここに集められたわたしたちにとても近い存在なのかもしれません。
でも彼らには、決定的に足りないことがあったのです。それは何か。狭い戸口から入ろうとしなかったということです。ここが今日のポイントであり、わたしたちがこの大斎節に心に留めておくべきことなのです。
では一体全体、狭い戸口ってどこにあるのでしょうか。どこを通れば救いの道につながるのでしょうか。この「狭い戸口」について黙想をしている中で、心に浮かんだ聖句がありました。それはルカによる福音書9章21節以下、初めてイエス様が死と復活を予告されたときに語られた言葉です。お読みします。
わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。
自分の十字架を背負い、イエス様の後に従う自分自身の姿を思い浮かべるときに、どんな姿で自分は歩いているんだろうと想像します。背中は伸びているのか、それとも腰が曲がっているのか。目はまっすぐ前をむいているか、それともうつむいているのか。足取りはしっかりしているか、それともヨタヨタ、時折倒れてはいないか。
しかしイエス様の後を歩む限り、イエス様が道を整え、イエス様が草むらの中を切り開かれ、イエス様が様々な困難から守ってくれる。その道はきっと狭い戸口なのでしょう。でもわたしたちを救いに導く光に満ちあふれた道なのです。
狭い戸口から入るためには、もう一つとても大事なことがあります。それは戸口の狭さにあわせないといけないということです。子どもの頃に聞いた、こんなお話しがずっと心に残っています。
ある女の子が泣いていました。見ると彼女の手の先には大きな壺があり、どうやらその壺に手を突っ込んだら抜けなくなってしまったそうです。どんなに引っ張っても、まったく抜けません。「壺を割ったらいいじゃないか」、誰かが言います。「でもこの壺は高いんだぞ」、他の誰かが叫びます。女の子はオロオロして、さらに大きい声で泣き出してしまいました。そこに一人のおばさんがやって来ていいました。「ねえ、お嬢ちゃん。手に何か握ってない?それを離して手をパーにしてごらん。そしてゆっくり外に出してごらん」。女の子はゆっくり頷いて、言われた通りにしました。すると不思議なことに、女の子の右手はスッと出て来たそうです。見ると壺の中には、たくさんのキャンディーがあったそうです。女の子はそれが欲しくて手を突っ込んで、思いっきりつかんだら出て来なくなった。それだけのことです。でもこの話は、わたしたちに大切なことを教えてくれているように思います。
狭い戸口から入ろうとするときに、わたしたちはたくさんの物を抱えながら入ることが出来るでしょうか。自分勝手な心。自分の力で歩けるのだという思い。自分に頼り、自分を信じ、自分の思いを優先する姿勢。
それはまるで、女の子がキャンディーを握りしめているかのようなものです。手の中がパンパンに膨れ上がり、壺の口を通ることができない。狭い戸口から入ることができないのです。
そうではなく、手放すんです。力を抜くんです。そしてイエス様に委ねるんです。わたしたちの前を歩くために、イエス様は十字架に付けられます。わたしたちがその後を歩むことができるために、イエス様はエルサレムへと向かわれます。
それが神さまのみ心、神さまの思いです。わたしたちが生きる者となるために、イエス様が先導する狭い戸口が示されました。自分を捨て、イエス様に従いなさい。その声を、わたしたちはどのように聞くのでしょうか。まだ1ヵ月以上続いていくこの大斎節に、ご一緒に考えていきましょう。