2024年9月15日<聖霊降臨後第17主日(特定19)>説教

「不自由のその先に」

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 マルコによる福音書9章14~29節

 わたしたちは年齢からくる衰えを感じます。記憶力や肉体的なこと。様々な場面で、わたしたちは「不自由さ」を感じながら、生きています。今年に入り、管理している教会も含めて、わたしは何人もの方が神さまの元に帰って行かれるその場面に立ち会ってきました。人が死に向かうとき、その多くの場合、身体の自由が奪われ、会話も難しくなり、自分の意思で動けなくなる。でもその「不自由さ」を抱えながら歩んでいるのは、年齢の衰えを感じたときだけではない。また死に瀕しているときだけでもありません。わたしたちは生きている中で、様々な場面でその「不自由さ」と対峙しながら、日々を過ごしているのではないでしょうか。

 今日の福音書は、このような言葉から始まります。「一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した」。

 聖書をお持ちの方は、マルコ9章をお開け頂けたらと思います。といいますのも、聖餐式聖書日課にはこの直前に何があったのか書かれていないため、一同って誰のことなのか、どうして群衆が皆、イエス様を見つけて非常に驚いたのか、よくわからないからです。では今日の物語の前、マルコ9章にはどのような出来事が書かれていたのか。2節から、このようなことが書かれています。それは「イエス様の姿が変わる」というものです。ある日イエス様は、高い山に登られました。そのときに一緒に連れて行ったのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネという3人の弟子たちだけでした。そして弟子たちの目の前でイエス様の姿が変わり、服も真っ白に輝き、旧約の預言者エリヤ、そしてモーセと語り合っていたという、その出来事がありました。そしてイエス様と3人の弟子たちは山を下りてきた、今日の福音書はそのあとの出来事です。

 ですから福音書の冒頭に書かれている「一同」というのは、イエス様とペトロ、ヤコブ、ヨハネという3人の弟子たち、「ほかの弟子たち」というのは、アンデレとかトマスとか、その他大勢9人の弟子たちのことです。つまり今日の箇所の前、イエス様たち4人は山にいて、9人の弟子たちは山のふもとにいた、そういうことです。その9人の弟子たちの元に、息子が霊に取りつかれていることで悩んでいる父親が来たようです。彼は息子を連れて来て、弟子たちに霊を追い出してくれるように頼んだものの、弟子たちにはそれはできなかったということです。

 わたしたちがこの物語を読むと、こう思うかもしれません。「そりゃあイエス様がいないんだったら無理よ」、「弟子たちだけで病気を癒やすことなんてできるはずがない」と。でも実は、彼らには実績があったのです。

 マルコ6章には、12人の弟子たちが二人一組になって遣わされる、宣教に向かわされる記事が載せられていました。そのときに彼らはイエス様から汚れた霊に対する権能を授けられ、「多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」と報告されています。彼ら9人の弟子たちは、その成功体験を胸に、この父親の願いを受け入れたのでしょう。きっとあのときのようにうまくやれる。自分たちに与えられた権能を使って霊を追い出すことができる。イエス様がいなくても大丈夫。そのように考えたと思います。しかしその思いはもろくも崩れ去っていきました。彼らはイエス様がその子を癒やした後で、イエス様にひそかに尋ねます。「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」。するとイエス様は、このように答えられます。「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」。

 「祈りによらないでは」、でも特別な祈祷文があるわけでも、定型の呪文があるわけでもありません。「祈りによる」、それは「神さまに頼る」、「神さまにすべてをお委ねする」ということを意味していると思います。弟子たちは、勘違いしていたのでしょう。自分たちには力が与えられ、自分たちの力だけで何でもできるのだと。自分の力に頼り、祈ることをしなかった。つまり神さまにお委ねすることをしなかったというわけです。

 さて、今日の物語の中に、もう一人イエス様からするどい指摘を受けた人物がいます。それは父親です。彼はイエス様に対して、「おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください」と願います。その言葉を聞いた途端、イエス様は「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」と言い返したのです。

 神さまに頼りきる。イエス様をただただ信じる。しかし頭でそのことが大切だと知っていても、わたしたちにはなかなか難しいことです。どうしても肩に力が入り、自分の力で何とかしようとしてしまう、それがわたしたちなのです。

 委ねるって、どういうことなのでしょう。夏に教会では、北小松にキャンプに行きます。そのプログラムの中に水泳があり、わたしはその時間になると、たいてい琵琶湖に浮いています。ソーセージブイに体を預け、足を上にあげてただただプカプカ浮いている。琵琶湖は湖です。しかし、台風の前後やちょっと大きな船が沖合を通った後など、大きな波がやってくることがあります。そのときに自分の力で立っていたり、浮き輪やボートに頼っていたり、一生懸命波に負けないように泳いでいたりしたら、流されたり、水をかぶってしまったり、自分がどこにいるのか分からなくなってしまったりしてしまいます。でもしっかりブイにつかまり、そのブイの動きに自分の体を委ねると、高い波が来たら自分の体も高く上がるし、強い波が来ても流されることはありません。自分の力で好きなところに行けない、泳いでいくことができない、その不自由さを感じるかもしれません。でもそれよりも、体を委ねることで守られている、そのことを強く感じます。

 わたしたちは年齢を重ねる中で、記憶力は落ち、そして肉体的にも衰えを感じていきます。また日々の歩みの中で、年齢とは関係ない中での生きづらさ、前を向けない、暗闇から抜け出せない、そのようなことを思うこともあります。イエス様は、そんなわたしたちに伝えて下さるのです。神さまに願いなさい。求めなさい。自分の力で何とかしようと思うのではなく、頼ったらいいのです。ああだ、こうだと思い悩むのではなく、委ねたらいいのです。

 わたしたちが自分の力に不安を感じるとき、不自由な思いを持つとき、それは神さまの恵みを感じるチャンスかも知れません。わたしたちが自分でもう歩けないと立ち止まるとき、それこそが神さまが伸ばして下さる温かいみ手に気づかされる大きなきっかけなのかも知れません。心を静めて神さまのみ声に耳を傾け、祈りましょう。そして神さまが広げた大きなみ腕の中に心を委ね、歩んでいくことができればと思います。

 神さまはわたしたちを愛しておられます。